翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

翻訳学習

輪になって話そう、翻訳のこと(2)

コロナ禍で自粛されていたイベントが各地で再開されていますね。わたしの住む地域でも3年ぶりにお祭りが開催されて、こんなに人がいたんだ!とビックリするくらいの人出でした。広場ではたこやき・焼きそばなどの屋台やキッチンカーなど、食べ物のブースの多いこと多いこと! 年末の上野アメ横か、お正月の浅草寺仲見世通りか、というくらいの混雑ぶりでした。平和です。豊かです。

 『チャンス はてしない戦争をのがれて』

『チャンス はてしない戦争をのがれて』(ユリ・シュルヴィッツ著、原田勝訳、小学館)をご存じでしょうか。戦争/ホロコーストを生き抜いた子どものお話。児童書です。戦時下に生きる子どもたちを描く作品はたくさんありますが、爆弾が落ちてきたり兵隊に脅されたりといった直接的な戦争描写よりも、親を失った、学校にいけない、外で遊べない、食べ物がない、住むところを転々としなければならない、長時間かけて列車や車で移動するなどの生活描写が主で、そこに現実感があって子どもたちは共感できるのでしょう。『チャンス』の場合は深刻な「飢え」が多く描写されています。今時の子たち、わかるかな。けっこう深刻です。こんな思いを子どもにさせちゃいけない。親も辛い。

子どもの本は、どんなに厳しい話であっても、希望の持てるものでなければならない、と児童文学の翻訳家こだまともこ先生がおっしゃってました。

辛さ惨めさだけだったら、きっと読んでいて苦しくなるばかりだったでしょう。でもユリ・シュルヴィッツさんはどんな環境にあっても絵を描いていて、生を感じていました。そして生きぬいた。子どもたちは戦争や迫害の辛さ惨めさに緊張しつつも、絵を描くという自分たちと同じ子どもの姿に、生き抜いて現在活躍する姿に、ホッとするんでしょうね。それから作品自体、何もかも詰め込むことはせずに、印象深い出来事を端的に表現しています。それも子どもたちに受け入れられる理由になるかもしれません。まるで絵本を読んでいるかのような印象を持つんです。今を生きる子どもたちに知ってほしい戦争と迫害の事実、そして生きる希望。いい本です。(表紙は赤黒でゾクッとしますけど)

【敬体と常体】

ところで子ども向けの本を訳すとなったとき、みなさんは敬体(です・ます体)と常体(だ・である体)のどちらを選ぶでしょうか。子ども向けだからと敬体を選ぶ人がいるようですが、ちょっと待って。敬体か常体かは、読者対象の年齢ではなく、その作品の特徴を端的に表す語り方はどちらなのか、で判断します。どんな文体で書かれ、著者がどんな気持ちを表そうとしているかを読み取ってください。

たとえば上の『チャンス』は常体で、厳しく辛い出来事をテンポよく表現しています。読んでいて息が詰まりそうになることもあります。もしこれが敬体だったらワンクッションはさんだように妙に情緒的に感じて、厳しさや辛さの伝わり方が弱まったことでしょう。

ちなみに、2009年の拙訳『ママ・ショップ』(主婦の友社)は10歳の男の子が主人公の楽しいお話で、常体で訳しています。テンポの良い原文だったので、初めて原文を読んだときから自然と常体の訳文が頭に浮かびました。一方2019年の拙訳『バレリーナは、どこ?』(河出書房)は、原文から読み聞かせのイメージが湧き、それを生かして敬体にしました。どちらも原文のテンポやリズムが文体を決めたのでした。そしてどちらの作品も、初めの数ページを試しに訳して編集者に確認してもらい、そうして安心して翻訳の世界に浸ったのでした。

大人向けの小説は常体の文章が多いのですが、I(私)が語る物語の場合には敬体が使われることがあります。カズオ・イシグロの『日の名残り』(土屋政雄訳、早川書房)がその例。語り手がお屋敷の執事なので、敬体が自然なんでしょう。もう一例、四人の名翻訳家が四つの章をそれぞれ担当した作品『指差す標識の事例』(創元推理文庫)では、おひとりだけ敬体で訳しています。その理由はわかりませんが、第1章第2章と重苦しい文体が続いてからの第3章が敬体訳だったので、ほっと一息ついた記憶があります。そのあと最終章が常体で、作品全体を締めくくった、という印象を持ちました。

原文をどう読むか、どう解釈して読者に伝えるか。原文は同じでも訳者が敬体にするか常体にするかで、その作品の第一印象が変わります。訳者の責任は重い、ですね。

斎藤静代

東京外国語大学英米語学科(当時)卒。産業翻訳や大学受験添削指導を経て出版翻訳へ。出版翻訳歴20余年。訳書は『オードリー リアル・ストーリー』(アルファベータ)、『ロシアの神話』(丸善ブックス)、『ドラゴン:神話の森の小さな歴史の物語』(創元社)、『ママ・ショップ』(主婦の友社)、『千の顔をもつ英雄』(早川書房)、『バレエの世界へようこそ』『刺繍で楽しむイギリス王立植物園の花たち』(ともに河出書房)など。サン・フレアアカデミー誤訳コラムで「ノンジャンル誤訳研究」を執筆中。

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