翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

翻訳学習

翻訳語り(1)翻訳と自信

翻訳をする読み手の方に興味を持って読んでもらえて、少しだけ役に立ち、少しだけ翻訳をやるのが楽しくなるようなものにしたいなと思ったのですが、そういう内容を目指して書いていると、すぐに「こうするといいですよ」みたいな上から目線のアドバイスのようなものになってしまい、それは違うとグルグルと悩んだ結果、こんな文章になりました。
もう少し「よそ行き」ではない話、そんなにスマートにエネルギッシュに生きられなくとも、なんとか翻訳はやっていけるものだと、なんとなく親近感や安心感を覚えられるような話にできたらなと思います。

翻訳という仕事には、家にこもりきりになるとか、地味な作業の積み重ねであるとか、日々のモチベーションは基本的に自分ひとりで維持しなければならないとか、ネガティブな要素がいろいろとある。わたしはひとりでいることはあまり気にならないが、コツコツやるのはわりと苦手だし、克己心はほぼ皆無だ。

にもかかわらず、これまで曲がりなりにも20年以上、仕事として翻訳を続けて来られた理由は、自分の中にも多少はこの作業に向いている部分があるからなのだろうと思っている。その向いている部分のひとつはおそらく、「自信がない」ことだ。

自信のなさのおかげ

「自信がない」というのをもう少し具体的に書くと、「自分の行動や判断の正しさをそう簡単に信じられない」ということになる。

たとえば、仕事や人づきあいのうえで必要なメールを送るとき、内容を書いては消し、消しては書き、完成してからも100回は見直し、なんなら何日か寝かせてからようやく送信する。ペンを手に持っている人に向かって、「それはペンですね」みたいなあたりまえのことを伝えるときにも、「あれってほんとうにペンだよね?」と心のなかで100回は確かめてから口に出す。

そういった、日常生活のなかでは無駄に疲れるだけでまったく得にならない、弱気で疑いの念に満ちたマインドを持っている人は、たぶん翻訳作業に向いている。

「今読んだこの英文、こういう意味だと思うけれど、ほんとうにそうだろうか?」と、常に疑いの気持ちを抱く。調べて確かめる。その結果判明した原文の内容を、日本語の文章として完成させる。翻訳というのは、単純に言えばひたすらにそういう作業の繰り返しだ。

誤訳のない翻訳本は存在しないとよく言われるけれど、これはほんとうにそうだとわたしも思う。その原因はさまざまであり、訳者に原文の意味を読み取る力が足りない、書かれている内容についての知識が足りない、あるいは、文脈から次はこういう流れだろうと勝手に思い込んで失敗してしまうということもある。

そんな翻訳書にとって逃れられない宿命とも言うべき誤訳を、それでもなんとか少なくするために役立ってくれるのが、「調べて確かめる」という作業だ。そして、母国語でない言語を解釈する自分の力を、文脈を正しくたどる自分の技量を、自分の知識や判断を信じていない――多少ポジティブな言い方をするなら「疑うことができる」人間ほど、その調べて確かめる作業に手間暇をかける。

すでに何度辞書で引いたかわからない単語を改めて引き直し、一冊の本を訳すのに数十冊の本に目を通す。多少どころかかなり「面倒くさいな」という気持ちが湧いたとしても、自信のない人間は面倒くささよりも自分を疑う心の強さが勝つので、どうしても端から端まで調べることになる。

だからこそ、自信のない人間には誤訳を減らす才能があると、わたしは思っている。

以前わたしが翻訳を担当させていただいた本の中で、「reservation」という言葉に足元をすくわれそうになったことがある。「reservation」と聞けば、日本人の大半はまず「予約」という訳語を思い浮かべるだろう。しかも「have reservations 〜」とくれば、「予約がある」という意味だと考えたくなる。ところが、「have reservations」というのは「予約」ではなく「懸念」があるという意味なのだ。

自分がこの間違いを犯していると気づいたのは、校了直前、最終ゲラを読んでいるときのことだった。訳文はそらで言えるほど読んだし、直すだけ直したし、もういいだろうと思いつつ、そこで待てよほんとうに大丈夫なのかとの疑念が湧き、最後にもう一度原文を全部読み直してチェックをした。その作業のなかでなんとなく、「reservation」を辞書で引いてみたのだ。

とんでもない誤訳に気づいたわたしは、背中にドッと嫌な汗をかきながら、そもそもの最初から「reservation」を辞書で引かなかったことを深く反省した。「よく知っている単語だから」という傲慢がそこにはあった。自信ナシ人間としてあってはならない失態だった。一方で、ギリギリのところでミスを回避できたのも、最後まで自分を疑わずにはいられない自信のなさのおかげではあった。

「自分を信じない自分」を信じる

少し前に出版されたわたしの訳書『陰謀論入門』(ジョゼフ・E・ユージンスキ著、北村京子訳、作品社)は、「陰謀論」とはなぜ生まれ、どんな人が唱え、なぜ世間で支持を得るのかといったことについての基礎知識を、この分野の代表的な研究者がまとめたものだ。

これは比較的短い本で、英文自体はさほど難解ではなかったが、引用されている文献の数が多く、その内容の確認にかなりの時間をとられた。本のなかで引用されている文章というのは、著者にとって使い勝手のよい部分が切り取られているせいで、前後の文脈を読まなければそのほんとうに意味するところがわからない場合が多い。そのため、元の文献にあたってみることがわりと重要なのだ。

言葉や文章の意味だけでなく、こういった事実関係の「調べ物」も、誤訳を減らすうえでは欠くことができない。そこに費やされる時間は、原文を読んだり、単語の意味を調べたり、訳文を書いたりといった翻訳にまつわるさまざまな作業の中でも最長なのではないかとも思われる。

そしてもちろん、自信のない人間はこの調べ物にも時間と手間をかける。自信のない人間が作った自信のない訳文はこうして、自信を持って提出できる訳文へとじわじわと進化していく。

自らの自信のなさについては普段から情けない思いをすることが少なくないが、今後万が一、自分の性格が変わってやけに自信に満ちた人間になるなどすれば、わたしはきっと、自信を持って提出できる訳文を仕上げるための武器をひとつ失ってしまうことになるのだろう。

北村京子

ロンドン留学後、会社員を経て翻訳者に。訳書にP・ファージング『犬たちを救え!』、A・ナゴルスキ『ヒトラーランド』、D・ストラティガコス『ヒトラーの家』、M・ブルサード『AIには何ができないか』、J・E・ユージンスキ『陰謀論入門』(以上、作品社)、『ビジュアル科学大事典 新装版』( 日経ナショナル ジオグラフィック社、共訳)など。

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