翻訳学習
2022.11.04
ベトナムつれづれ。(6)青いバナナの味
柿が出回る季節になると、ベトナムの「渋い」思い出が私の心によみがえります。地元のレストランで知人の送別会が開かれた時のことでした。テーブルに次々と運ばれてくるベトナム料理の中に、ジュージューと焦げる音をさせ、スパイスの香りを漂わせている魚の一皿がありました。焼きたての魚の横には、香草、細切りのパイナップル、それにスライスした薄緑色の何かが盛られています。野菜か果物か、正体を確かめたい。私は思わず口の中に入れました。すると、舌の水分が抜けていくような感覚に襲われました。これは…。子どもの頃、近所の人がくれた柿の実をかじって口の中に広がった、あの苦いとも酸っぱいともいえない、でもパンチのある味。あれと同じだ。私は顔をしかめました。まさか渋柿?
向かいの席に座っていたベトナム人の女性が「ふふっ」と笑って言いました。
「それ、バナナよ」
スーパーの青バナナ
港町ハイフォンに私が住み始めた頃、「日本で買っていた黄色いバナナ、あれはここではなかなか売ってないのよ」と教えてくれた日本人女性がいました。遠くの輸入食品を扱うスーパーまで行かないと黄色い品種のバナナは手に入らないとのこと。当時、近くの市場やスーパーで見かけたのは青いバナナばかりでした(以下、青バナナ。熟し過ぎて黄色くなったものもあったが、日本で見かける品種とは違った。ベトナムにはバナナが約28種類もあるらしい)。
だから、ベトナム人女性が言った「それ、バナナよ」とは青バナナのこと。しかも、熟す前の、火を通していない生の青バナナ。これを焼きたての魚、香草、パイナップルなどと一緒にライスペーパー(日本で生春巻き用の皮として売られている円形のものとは違い、四角形でセロファン紙のように薄い)で包み、タレをつけて食べるのです。
先ほどのベトナム人女性が私の顔を覗き込みます。いたずらっ子のように目をクリクリさせ、青バナナの味に戸惑う私に聞いてきました。
「その味、日本語で何て言うの」
どう表現したらいいのだろう。私は一瞬迷いました。やはり渋柿に似ている。
「渋い。し・ぶ・い」
私はゆっくりと答えました。
市場
そのベトナム人の女性は日系企業で働いていて、職場で飛び交う日本語を毎日聞いているうちに、日本語の会話を少し理解できるようになったという人でした(英語ももちろん堪能)。青バナナの感想を苦笑いで済まそうとした私に、「どんな日本語でもいいから教えて」と聞いてきたのでした。彼女と話が弾んだのは、送別会でたまたま席が近かったからだけではありません。彼女は、私がベトナムに暮らすにあたり書類を準備(文書の翻訳なども含めて)してくれた人でした。その後も私が生活に慣れたかどうか、たびたび心配してくれていた人です。この送別会までお互いに顔を合わせる機会がなかっただけで、私はずっと前から彼女と話したいと思っていたのです。
「し・ぶ・い」
天をまっすぐ見つめながら、彼女はひとつひとつ丁寧に発音しました。クリっとした目をさらに上に向け、頷きながら二回も三回も繰り返しました。出会ったことばを大事にする人。だから、職場の日本語も聞いているだけで少しわかるようになったのだ、と私は納得しました。
「Chát」
突然、彼女が私に向かって言いました。チャッ?
「この味、ベトナム語ではそう言うのよ」
今度はあなたの番、という目で私を見ています。青バナナを通して、日本語とベトナム語の交換会です。
私が慌てて「チャッ」と何度か練習すると、彼女は「よしよし」といわんばかりにニカッと笑いました(帰宅して辞書で調べると、Chátはやはり「渋い」だった)。
左:唐辛子入りの塩 右:ライスペーパー
「渋い」を経験してから、私はそれまで避けていた未熟な果物を積極的に食べるようになりました。ベトナムではむしろ緑の硬いマンゴーやグアバの方がたくさん売られていて、一口サイズに切ったそれらを、人々は唐辛子入りの塩にちょんちょんとつけて食べるのです。完熟の果物と比べれば、未熟な果物は甘くないし、柔らかくもない。でも、未熟という先入観をいったん脇に置いて果物そのものを味わってみる。するとパリッとみずみずしい。少々の酸味と渋味で口の中がさっぱりする。完熟の甘さだけが果物のおいしさではないのだ、と私は気づきました。
緑のマンゴー
外国語の単語は、何らかの場面やストーリーと結びつけて記憶すると忘れないといいます。ストーリーが鮮烈であればあるほど、記憶に定着します。Chát(渋い)というベトナム語の単語は、私にとって忘れられないことばになりました。舌がびっくりする青バナナ。甘味とは別の、未熟な果物のおいしさ。天を見つめながら「渋い」を頭にたたき込んでいた彼女。まさかあの時が最後になるとは思いませんでした。彼女が風邪を引いて三日間会社を休んでいるらしい。そう私が聞いた日の翌日、彼女は亡くなった。冗談でしょ。単語を覚えるために彼女がじっと見つめていた天に、彼女自身が連れて行かれてしまった。
図らずも、Chát(渋い)が私の記憶に残りました。私の舌、のどの奥から胃も心臓もすべてギュッとえぐり取られるような感覚を呼び覚ます単語として。柿の季節が巡ってくるたびに、私は、彼女と交換した「渋い」ということばの深さを思い知るのです。あの日、これから彼女と仲良くなれそう、などと私は呑気に考えていた。次に会う機会は永遠に来ないと知るはずもなかった。
福田 理央子
慶応義塾大学法学部卒業。同大大学院法学研究科修士課程修了。小学校時代のほとんどを米国で過ごし、英語を使う仕事に興味をもつようになる。法務分野の和訳と英訳両方のTQEに合格後、フリーランス翻訳者としての仕事をスタート。現在は、主に法務分野の翻訳(英日・日英)に携わる。「ことばのエキスパート」を目指して法務翻訳以外(街歩きガイドブック、交渉学の論文アブストラクトの英訳など)にも積極的に取り組む。密かにポリグロット(多言語話者)に憧れ、英語以外の言語も少しずつ勉強中。英検1級。