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好きこそものの……『地図と星座の少女』が世に出るまで

キラン・ミルウッド・ハーグレイブ 著、 オリア・ムーザ絵、佐藤 志敦訳、岩波書店

このコラムの読者には、翻訳を生業にしようと日々励んでいらっしゃる方も少なくないと思います。今日は、好きという気持ちだけを支えに、還暦にして初の訳書を出した新米翻訳者がこの場をお借りします。年を取っていても、地方在住でも、知識ゼロから始めても、愛があれば、いつか道は開けるという希望の光を届けられたら幸いです。

翻訳との出会いは十年以上前のこと。

サン・フレアが運営していた『WEBマガジン出版翻訳』の「わたしの新訳」コーナーに『わたしのロビン』というバーネット婦人の短編が掲載されたこともありました。
地方在住のため学習はすべて通信講座です。大学はうっかり理系に進んだため、外国語をきちんと学んだことがありません。そのため初級講座からはじめ、時間をかけて地道にレベルアップしていくほかはありませんでした。まるで手探りのような道行でしたが、学べば学ぶほど翻訳の世界の奥深さに魅了され、課題で作品の一部を訳すことに飽き足らず、ほどなく好きな作品を自分のためだけにコツコツと訳すようになりました。
ご趣味は? と聞かれても、ちょっと返答につまるディープな趣味です。

「翻訳が好き」という気持ち。

暇さえあれば本を開きたいのですが、当時はフルタイムの仕事に就いていて、遅めに産んだ娘を抱えて子育ての真っ最中、時間にも体力にも余裕がありません。家のローンや教育資金のことを考えると、安定した生活を手放して、芽が出るかどうかもわからない翻訳の道に進むことは「夢」とすら思えない状況でした。実際、ぼんやりと思い描いていたのは、退職したら気ままに好きな作品を訳して楽しもうということだけです。

それでもずっと変わらなかったのが、「翻訳が好き」という気持ち。だって、どんなに疲れていても、すきま時間を見つけて翻訳に向きあうとき、心が満たされていくような幸せを感じるのですから。

58歳のとき、そろそろ母でも上司でもない、自分自身の幸せを探しに出かけてもいいころだと思い、まわりの反対を押し切って早期退職を果たしました。ああ、あのときの気分の良かったこと! これで思う存分、気に入った作品に向きあえます。

転機。

そんなわたしに転機が訪れたのは、退職から半年がたったころでした。当時受講していた通信講座の講師の原田勝先生が、ハーグレイブさん(『地図と星座の少女』の原作者)の原書の一つをお持ちだと知っていたわたしは、作家の魅力をお伝えするべくレジュメを送りつけるというむちゃぶりに出たのです。講座ではなかなか良い成績が取れず、自分の訳書を出すなど叶うはずもありません。でも、先生の翻訳で、お気に入りの作家の作品が読めたら……と妄想がふくらんだすえのことでした。

いや、そんなことがしょっちゅうあったら、翻訳家の方たちはたまったものではありませんよね。でも、先生は快く目を通して下さっただけでなく——大幅に中略——出版社さんをご紹介くださったのです。先生の翻訳で読みたいという願いが、自分の訳書を出すというプロジェクトに大転換した瞬間でした。紆余曲折を経て、当初持ち込んだ作品とは別の『地図と星座の少女』を選んでくださったのが岩波書店さん。担当の編集者さんから企画がとおりましたとご連絡をいただいたときには、これはきっと夢なのだと思いました。

けれど本番はここからです。素人が楽しみのためだけに訳したものを、読者に楽しんでもらえる作品にまでブラッシュアップしなければなりません。ありえないほど忍耐強く、優しい編集者さんに支えられ、高い高い山を目指す険しい道のりが始まりました。きっと、どんなに言葉をつくしても、この険しさはお伝えできないでしょうし、登る山の景色は一人ひとりみな違うと思うので詳しくは述べませんが、まさに死に物狂いでした。でも同時に、訳文が魔法のように磨かれていく過程は、なにものにも代えがたい宝物のような時間でもありました。

幸運は続きます。翻訳を進めるあいだに、版権エージェントを通じて、原書出版社が挿し絵付きの愛蔵版を刊行するという情報が入ったのです。そして、訳書にも、ウクライナの画家の方による装画や挿し絵、書き下ろしのボーナスコンテンツまで盛り込むことになり、ついに宝石箱のような美しい本が出来上がりました。

この作品が世に出るまでに、どんなにたくさんの方が力を合わせてくださったかをふり返ると、胸がいっぱいになります。洋書には、人の名前が延々と続く謝辞がついていることがありますよね。作品の内容と関係もなく、読者には退屈なものと思っていましたが、いまならその意味が分かります。というか、日本の作品や邦訳作品でも、もっと本づくりに関わった方のお名前が出ていいと考えるようになりました。わたしのような駆けだしの翻訳者は、たくさんの黒子の一人にすぎないというのが率直な思いですし、本に名前が記された自分は、みんなを代表しているのだと気持ちも引き締まります。

最後になりますが、わたしにほほ笑んでくれた幸運の女神は、きっと、「好き」という思いの輝きに目をとめてくれたのだと思います。みなさんも、女神がはっと息をのむような輝きを心に灯し続けてくださいね。

佐藤 志敦さん
翻訳家。北海道釧路市生まれ。大学で植物病理学を学び、博物館の館長職などを経て翻訳家に転身。児童書、YA作品を手がける。佐藤志敦@推し活翻訳家|note

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