翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

海外だより

海賊

祖父母たちが眠る丘から安芸津の海を見下ろす

「うちの先祖は瀬戸内海の海賊だよ」という父の嘘とも冗談とも分からないせりふが私の脳裏に埋め込まれたのはいつの頃からだろう。

父の両親と兄 明治45年(1912)

父が広島育ちで、父の父が原爆で亡くなったということはものごころついた頃から知っていた。でも、実際に広島を訪れたことは、二回しかなく、山の上にある先祖の墓参りには子供の頃に一度行ったきりだった。

昭和14年(1939年)の大学入学以降、戦前戦後と東京に暮らす父にとって、両親のすでにいない広島に行く理由はあまりなかったのだろう。結婚した母は東京生まれ東京育ちの人でもあった。だから私にとって広島は「本籍のある土地」にすぎなかったが、父は常に野球セ・リーグ広島のファンであり、日本酒なら酔心、広島時代の恩師が時折送ってくださる生牡蠣は子供の私にとっても“馴染み深い”食べ物だった。

父祖の海静かに牡蠣の育つなり  ちづこ

「海賊」のことを思い出したのは、2017年に本帰国してからのことである。

コロナ騒動で欧州に行く機会がなくなり、それならばあまり知らなかった日本を車で廻ろう、と、北は秋田青森まで、西も京都、奈良へと度々出かけたが、いかんせん瀬戸内は遠い。

そうこうするうちにまた“フランス里帰り”も復活し、時間がなかなかとれない。しかも行くならば、それなりに祖先のことを調べたいと、だんだん欲張りになっていた頃、若い友人夫妻の一言が私たちの背中を押した。

「ルーツ探しは車の運転ができるうちですよ。役所などを訪ね歩くと、**寺へ行ってみろ、とか、**さんがあの辺りの長老だ、とかいろんな情報が入りますけど、公共の乗り物でそれを追うのは難しい」

とりあえず飛行機で広島へ飛び、レンタカーで瀬戸内を巡り、最後に道後温泉に浸かる、という1週間の計画を、秋の初めに立てた。

旅行に向けて私は、父母が亡くなった時に取り寄せていた戸籍、そして新たに入手したさらに遡る戸籍を精査することから始めた。昔の戸籍は手書きであり、また、時代によって行政区画の変更などで村の名前などが変わり、その度に戸籍は書直されたりするので、とても読みづらいのだが、父の父の祖父の幸右衛門という名前が判明した時は、小躍りした。

私の高祖父がいつ生まれたのかは分からないが、その息子(曾祖父)が嘉永元年(1848年)生まれだから、おそらく19世紀の初頭。江戸時代後期、ちょんまげの時代だ、と考えるとそれも愉快だった。当たり前のことではあるけれど、私は誰かの子孫であり、ずーっと続く誰かさんたちがいなければ私は存在していないのだから。

次に私は、父の手帳を調べることを思いついた。実家を片付けた時にどうしても処分できなかった1960年から2010年頃までの何十冊かの手帳。

“記録魔”の父の手帳には、スケジュールやらちょっとしたメモ書きが日記帳のように書き込まれていて、読んでいると彼の日々が目に浮かんだ。ことにリタイア後、70-80歳代の充実ぶりにはわが父ながら本当に感心した。そして80代後半の頃父がふと呟いた「戦争もあったけれど、いい人生だったと思うよ」という言葉も思い出していた。

父の手帳。1974年から2003年まで。同じ様なサイズの手帳が木箱にまとまっていた。

父の手帳に同じお寺の名前が散見するのは1990年前後である。スケジュール表には1泊ないし2泊で広島を訪れ、クラス会に出席したり、遠縁を訪ねたりしている。

その頃は私自身も東京にいて、両親がしょっちゅう国内外を旅行しているのは知っていたが、父が一人で広島に行っていたのは全く知らなかった。「広島のお墓は遠くてね」と母が漏らしたのがあの頃だったかもしれない。

両親ともに健康であり“老親”には程遠く、彼らの生活に介入する必要もなかったからなのだが、今になるとあの頃父からもっといろんな話を聞いておけばよかったと思う。先祖のことにしても海賊のことにしても、、、

父の手帳に意を強くした私は、このお寺に連絡を取れば何かが分かるだろう、今度の瀬戸内旅行の第一歩はここからだ、と決めた。

2002年、私が滞在するフランスに遊びに来た時の手帳。父、85歳。

21世紀という時代を本当に有難く思う。

グーグルマップ検索でお寺はすぐに見当がつき、HPも見つけることができた。その「お問合せ」ページに、いろいろ書き込んだ私に、若いご住職はすぐに返事をくださった。

想像した通り、父の両親や早逝した父の兄たちのお墓がある、という。そして、そこには、件の高祖父ゆかりと思われるお墓も並んでいるというのだ。何度かメールを交わす中で、ご住職は、さらにお寺の古文書に高祖父、幸右衛門の名前があることも教えてくださった。旅行への期待は益々膨れ上がった。

祖父母のお墓を守ってくださるお寺の本堂

瀬戸内海の小さな島に、その昔あの地域に活躍していた村上水軍の要塞ともいうべき海城があった。現在その小島には「城跡」の碑があるだけだが、周辺の潮流体験船以外にも“上陸付”という観光船が週末には運行するらしい。私は早速チケットを予約した。

瀬戸内の変化に富んだ水流を見下ろせるこの島の名前は能島。結婚して祖母の家に婿養子に入った私の祖父の旧姓は能島である。(つづく)

村上海賊の海城地図

村上海賊が瀬戸内海を通る船に与えた「通行許可の旗(レプリカ)」

北原 千津子

東京生まれ。 大学時代より、長期休暇を利用して欧州(ことにフランス)に度々出かける。 結婚後は、商社マンの夫の転勤に伴い、通算20年余を海外に暮らした。 最初のパリ時代(1978-84)に一男一女を出産。その後も、再びパリ、そしてロンドンに滞在。 2013年、駐セネガル共和国大使を命ぜられた夫とともに、3年半をダカールで過ごし、2017年に本帰国した。現在は東京で趣味の俳句を楽しむ日々である。

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