翻訳ひといきコラム

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海外だより

オーストラリアで起業する(3)

オフィスから徒歩5分のエスプラネード(The Esplanade)から見る朝日から、エネルギーと勇気を貰っている。

「家を売って欲しい」という突然の日本人男性の訪問以来、長かったトンネルを抜けたのか、少しづつ売り物件の依頼が入り始めた。「賃貸管理をして欲しい」という方からの問合せも増え、市内に50平米のオフィスを借りて賃貸管理業務も始めた。Dも私も賃貸管理業務は経験が無かったので、間違いながら学んでいくといった毎日だった。管理件数も徐々に増え、初の従業員も雇った。起業してから3年、売り上げも増え始め、翻訳の内職をする時間もないくらい忙しくなっていったが、Dとの関係には陰りが出てきていた。起業した時にはDが前面で販売活動をし、私は事務作業など縁の下の力持ち的な役割を担う予定だったのに、蓋を開けてみると日本人のお客様から頂く案件が多く、私が対応しなければならない事案も多かった。日本人のお客様から求められるサービスがオージーのDには理解出来ず、Dと私の間で意見が分かれる事も多くなった。会社の中でも口論、家に帰っても口論という日々が続き、Dも私も次第に疲弊していった。「会社を閉じて、恋人としての関係を修復しよう」とDは言ったが、当時共に40台半ばだった私達が、すぐに次の仕事を見つけられるとも思えなかった。二人とも職を失って収入が無くなれば、精神的にも不安定になって、恋人としての関係もいずれは壊れることが目に見えていた。そうなればDがあんなに頑張ってリノベーションした家だって手放さなければならなくなる。また、責任感の大切さを叩き込まれて育った昭和生まれの私は、私達を信頼して物件を任してくださっているお客様に「会社を閉めますので、他の会社へ移ってください」とは、どうしても言えなかった。考えに考え抜いた末、辛い決断だったが「二人ともサバイブするために、恋人関係を解消してビジネスパートナーとして会社を継続しましょう」と私はDに告げた。

2012年(起業後2年目)、ホームオフィスを出て開設したオフィス。

それから3年間、Dとは共同経営者として会社運営を続けた。会社は少しづつ成長を続けたが、Dとの共同経営は更に難しくなっていった。「感覚」だけでビジネスを行いたいDと、「戦略」に基づいたビジネスを行いたい私は、一つの船に二人の船頭がいて、お互いが別々の方向に向って船を漕いでいるようなものだった。「自分はビジネスの才覚が無いし、ミホの足を引っ張っている。自分がいないほうがミホは飛躍できる。会社を抜けさせて欲しい」Dは何度も頼んできたが、「あなたが言い出して始めた事なのに、私一人に押し付けようって言うの?無責任すぎる!」私はDに罪の意識を植え付けて彼を縛り付けた。英語も完璧に喋れない日本人の中年女が、競争の激しい不動産業界で、オーストラリア人の競合他社相手に一人で会社を経営するなんて無理だと思っていた。Dとの共同経営には先が無いとわかっていたのに、一人でやっていく覚悟がなかった。「人間は不安よりも不幸を選ぶ」と先日日本のラジオで言っていたが、当時の私はまさにその通りだった。

2016年(起業後5年目)、看板、店頭デザインを改装。

2017年9月、Dは新しい恋人との生活を始めるために海外に移ることを決め、退社を申し出た。私には彼を引き留める術が残っていなかった。不動産会社経営のための資格を取り、ビジネスローンを組んでDの持ち分を買い取り、会社代表者の名義変更をしてお客様にも通知した。「英語もまともに喋れないミホがやっていけるの?」うちとの取引に終止符を打つお客様が出てくるのでは、と危惧していたのだが、お客様の反応は意外なものだった。日本人のお客様からは「大丈夫ですか?大変ですね」と心配されたものの、オーストラリア人のお客様からは「Congratulations! Well done! (おめでとう。よくやった)」と言って貰った。これはDや私のことをよく知っている人、知らない人を問わずの反応だった。誰かの下で使われるよりも、一国一城の主であることに価値を置くオーストラリア社会では、「ビジネスを始める人」や「ビジネスを引き継ぐ人」には純粋にエールを送るのだとその時に知った。

あれから5年、私は今もビジネスを続けている。2年前に販売担当「社員」として会社に復帰したDを含め、現在オーストラリア人スタッフ4名を雇っている。「起業後10年間は我武者羅に働いた。その後はラクになった」という諸先輩方のコメントを信じ、「とにかく10年」と思ってやってきた。一昨年、念願の10周年を迎えたが、今のところ「ラクになった」という実感は無い。「どうすれば売り物件や賃貸管理物件を獲得できるのか」は常に頭を離れることがない課題だし、何といっても難しいのはオーストラリア人スタッフの雇用だ。日本人に比べると一般的に仕事に対する責任感が薄く、会社や上司に対する忠誠心が乏しく、自分の権利を最大限に主張するオーストラリア人スタッフと共に働くのはチャレンジの連続だ。オーストラリアで不動産業を営まれている日本人経営者の殆どは、日本人のお客様に特化し、日本人スタッフのみを雇っている。「自分の特性を生かしてニッチマーケットで勝負する」賢いやり方だと思う。私も同じようにすれば精神的にもずっとラクになり、効率よく売り上げを伸ばせるだろうとは思うものの、どうしても「日本人特化」というやり方にシフトできない。何の取り得も無い、英語もきちんと話せない外国人の私に、個人の持ち物の中で一番高額な財産である「家」の売買や賃貸管理を任せてくれるオーストラリア社会に対して、私が恩返しできるのは「オーストラリア人スタッフの雇用」と、彼らへの「良いサービスの提供」だと思っているからかもしれない。

2021年(起業後10年目)、隣の店舗も借りてオフィスを拡張し、看板も改装。

「海外で会社経営なんてすごいですね」と、日本の方に言って頂くことがあるが、日本にいたら私は起業なんて出来なかったと思う。オーストラリアは寛大な国で、真摯に挑戦する人に対しては、人も、社会も、国もサポートしてくれる。「オーストラリアで起業したい」という方には、“Go for it!!” と伝えたい。要領の悪い私よりもずっとスマートに起業できる方は多いと思う。

起業以外でも、就職、転職、結婚、離婚など、今とは違う環境へ移行する事に二の足を踏んでいる方へも伝えたい。慣れ親しんだ環境から新しい世界へ踏み出すのは怖くて不安だ。でも、怖いのは踏み出す前だけで、踏み出してしまえば、そこには想像もしていなかった世界が広がっているし、踏み出す前に心配していた事は起こらない場合のほうが多い。私もDとの共同経営に終止符を打って単独オーナーになる前の恐怖感は今でもはっきりと覚えているが、実際には単独オーナーになってからのほうが会社経営は断然面白く、自由に何でも出来るようになった。バンジージャンプやハングライダーも、飛んだ後よりも、飛ぶ前のほうが怖いのではないだろうか。

2023年、ウサギ年。それぞれが自分の夢や目標に向かって、ピョンピョンと軽やかに跳ねることが出来る年になりますように。

オフィスから道を渡った所にあるマンロー・マーティン公園(Munro Martin Parklands )。
緑や美しい木々に癒される。

熊谷 美保

福岡県出身。2003年通訳・翻訳の勉強にオーストラリアのメルボルンへ。 2007年、ケアンズへと移り地元の不動産会社に就職。その後、当時のパートナーと不動産会社DJスミスプロパティを設立し、2017年に単独オーナーとなる。 ケアンズで不動産仲介、賃貸管理業務を行い、日本人のお客様にもご愛顧頂いている。 今は翻訳の仕事から離れているが、いつの日かオーストラリア人作家の作品を日本に紹介するのが夢。

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