翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

翻訳学習

輪になって話そう、翻訳のこと(4)

お雛様を飾らなければ、と思いつつもう3月。2月は体調を崩して(大丈夫、コロナでもインフルエンザでもありません。ただの風邪または疲労)、寝込むことこそなかったけれど、だいぶ薬の世話になりました。だからお雛様まで気が回らず、とうとう3月を迎えてしまったのでした。それでもやっぱり季節ものですから、飾らないのも寂しいと思って、35年くらい前に我が家に来た小さな内裏雛だけを玄関にちょこっと飾ることにしました。あとのお雛様は来年まで引き続きお休みいただくことに。ごめんなさい<(_ _)>

翻訳家・東京外国語大学名誉教授 河野一郎先生逝去

さて、薬でぼんやりした頭でずっと考えていたのは、大学時代の恩師、翻訳の師匠である河野一郎先生のことをどのようにみなさんにご紹介しようかということ。河野先生、年明けの1月6日に93歳で亡くなりました。昨年の初夏に電話をかけたときにはお元気な様子でした。奥様によると、夏に体調を崩されるまで国内外の新聞や雑誌をチェックして、既刊書の改訂のために英語の新しい表現を探していらしたそうです。

河野先生には大学時代に翻訳ゼミで指導していただき、それが翻訳家になりたいという夢を持つきっかけになりました。卒業して20数年たち思わぬ縁で再会。サン・フレアアカデミーや出版クラブで講義をお願いしたことがありましたし、わたし自身の翻訳の相談にのっていただいたこともありました。そして2016年から神奈川大学KUポートスクエアの翻訳教室で再びご指導をいただくチャンスを得て、最後の教え子の一人となりました。

河野先生の著書・訳書

前回のコラムで、どの翻訳家の本でもいいから一冊指南書を読み通すといい、と書きました。

じつはわたしにとっての最初の指南書は河野一郎先生の『翻訳上達法』(講談社現代新書、1975年初版)。今では古書扱いのようですが、それでも内容が古びていない、と評価する読者がいて(ア〇ゾンのレビュー)、教え子の一人としてとても誇らしく思っています。そのあとに読んだのが『翻訳教室』(講談社現代新書、1982年初版)。どちらもところどころ赤線が引いてあって、当時のわたしはちゃんと勉強したらしい。それから時間がたって『翻訳のおきて』(DHC)を読み、さらに『誤訳をしないための翻訳英和辞典』『誤訳をしないための翻訳英和辞典 +22のテクニック 改訂増補版』(いずれもDHC)は困った時の参考書にしています。

このコラムを書くにあたって調べていたら、柴田元幸先生も『翻訳上達法』を読んでいらしたことがわかりました。

河野先生の代表的な訳書は『嵐が丘』やカポーティの作品なのですが、わたしが気に入っているのは、『黒衣の女』(ハヤカワ文庫)、『モーム短編集アシェンデン』(新潮文庫)、『イギリス民話集』(岩波文庫)。とくに『黒衣の女』については、「夜読みたくない本ですね。背中がゾクゾクしました」と感想を伝えたら、「あれは訳していてもゾクッとしましたよ」とニコッとしながらおっしゃって、訳者がゾクッとしたのだから読者に怖さが伝わったんだ、と納得したことを覚えています。

良い翻訳者になるために

最後に、先生に教わったことを思いつくままに記しておきます。

*相性の良い作家に出会うと翻訳がらく。読みながら著者の思考を無理なくなぞることができるから、ということのようです。

*英語以外の言語ができるようにするといい。言語学的、学術的知識の幅が広げられるということもあるけれど、仕事の幅も広がる、ということでしょうか。

*作品を読むときには、その物語の中に身をおいてみる。そうすると、訳文を思いつきやすい。これは耳にタコができるくらい聞きました。物語の中にはいりこむ前提として、正確な読解ができなければならない、というのは言うまでもありません。

*新聞、雑誌、映画などで、口語・俗語を勉強する。『翻訳上達法』にも「俗語・口語表現のミス」で項目がたっています。ちゃんと調べないと、笑い話のような誤訳になりかねません。くわばらくわばら。

*どんな言葉にも敏感であれ。先生は労働者階級の崩れた言葉遣いも、山の手の奥様の「ございます」調も、老人の言葉も子どもの言葉も、多種多様の言葉をストックしていらっしゃいました。原文に合わせて何でも対応しなければならないのが訳者の仕事だから、ですね。普段の先生は丁寧な標準的な言葉遣いで、孫のような年齢の教え子にも丁寧語でした。わたしたちの話を聞きながら、中年から老年のおばさんたちがどんな言葉を使うか、もしかしたら観察して言葉採取をしていたのかもしれません…。

*音楽を聴いてリズムを楽しもう。リズム感のある人の文は読んでいて心地よいそうです。

*敬語の使い方をおさえておくこと。大学の翻訳ゼミに入るための試験で、敬語の問題が出されました。幸い合格したのですが、そのときに敬語の使い方がうまくないと翻訳に響くと聞かされたのでした。できれば子どもの頃に身体に染み込ませるように覚えるのが一番いいみたいですが、今からでも間に合います。きれいな日本語で書かれた小説・エッセーなどを読んで勉強しましょう。

*トラックの荷台いっぱいの本を読む。これも何度も言われました。言葉はわたしたち翻訳を仕事にする人間にとって商売道具。それをいつもメンテナンスして増やして、どんな要望にも応えられるようにしておかなければならない。そのためには仕入れが大事、ということですね。日本語の本でも原書でも何でもいいです。みなさん、たくさん読みましょう。

斎藤静代

東京外国語大学英米語学科(当時)卒。産業翻訳や大学受験添削指導を経て出版翻訳へ。出版翻訳歴20余年。訳書は『オードリー リアル・ストーリー』(アルファベータ)、『ロシアの神話』(丸善ブックス)、『ドラゴン:神話の森の小さな歴史の物語』(創元社)、『ママ・ショップ』(主婦の友社)、『千の顔をもつ英雄』(早川書房)、『バレエの世界へようこそ』『刺繍で楽しむイギリス王立植物園の花たち』(ともに河出書房)など。サン・フレアアカデミー誤訳コラムで「ノンジャンル誤訳研究」を執筆中。

Facebook Twitter LINE はてなブログ Pin it

このページの先頭に戻る