翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

翻訳学習

輪になって話そう、翻訳のこと(12)

イチゴの苗をもらいました。来年春に収穫できますように

我が家には2歳児がいるので、テレビでは主に子ども番組を視聴しています。その中のひとつ、今年65周年を迎えたNHKの「おかあさんといっしょ」は、かつて子育ての時にお世話になった番組です。その構成は40年近く前とほぼ同じですが、懐かしいメロディの歌に加えてポップな曲が増えたこと、体操のお兄さんお姉さんのアクロバティックな動きが目を引くこと、そして現代の多様性を反映していることに進化を感じています。子どもそっちのけで歌や体操のお兄さんお姉さんのファンになって、大人も楽しんでいる今日この頃。

そのお兄さんのひとり、歌手の横山だいすけさんが、65周年の記念番組(大人向け)の中で、こんな話をしていました。

彼は音大で音楽を基礎から学んだので、楽譜通りに正しく歌うのがよいことだと思っていたのだそうです。ところが実際に子どもたちを相手にする日々の中、あなたの歌は楽しくないと周囲の人に言われたことがあったのだとか。きびしい言葉ですね。そうして悩むこと数年、あることがきっかけになって気づきました。自分が楽しいと思ったら、その気持ちを伝えればいいんだと。譜面通りにはならないかもしれないけれど気持ちが伝わるように歌えばいいんだと決めたときから、お兄さんの歌は楽しい、と言ってもらえるようになったのだそうです。彼の歌はたしかに楽しい。我が家では「歌が楽しい」を通り越して、「お兄さんが楽しい」と高評価です。

さて翻訳の話。わたしの翻訳講座では最初に、文法や構文を土台にして原文を正しく読んでください、とお話しています。だいたいこんな感じの意味かな、くらいの読み方では不十分で、それでは著者の思考を追うことはできないのだから正確に読んで理解しましょう、と。初期のだいすけお兄さんの「譜面通り」はまさにこれで、翻訳に置き換えるなら「原文通り」です。ところがここで「楽しくない」状況が生まれます。NHKのニュースでAIがニュースを読み上げることがあるのですが、味も素っ気もない事実のみの伝え方になっていますね。たぶんそれが「楽しくない」ということ。翻訳でも文法通り正確に訳すだけでは「楽しくない」「おもしろくない」。ここで求められるのが、血の通った言葉と文章です。著者の代わりに話者や登場人物の気持ちに沿った文章を綴るにはどうしたらいいか、試行錯誤することになります。

サン・フレアアカデミーの文芸翻訳和訳演習8月期で読んだ作品に、こんな文がありました。

And she knocked into this annoying boy in my class … , which was an added bonus.
Jemima Small versus The Universe、Tamsin Winter著、Usborne Publishing Ltd)

体形に劣等感を持つ女の子の話。後ろ指を指されたりこそこそ悪口を言われたりじろじろ見られたりすることが多いのですが、あるときひとりの生徒(she)が椅子につまずいて転んで、みんながそちらに注目して自分のことを見なくなってよかった、と思っていたら、つまずいた子がさらに別のいじわるな男の子にぶつかってしまった。つまずいた子には申し訳ないのだけれど、よっしゃー!と思った、という場面です。which was an added bonusは「それは追加されたボーナス(思いもかけない幸運)だった」が直訳で、「それはおまけだった」と訳してもいいのですが、それではおもしろくない。そこでわたしは「これはおまけ(ありがと!)。」と訳しました。「これはおまけ。」と言いっぱなしにすることで勢いを表し(カンマがあってのwhich節であり、この段落の最後の一文ということもあって、オチのようにまとめたのでした)、さらに「ありがと!」で気持ちを足す。でも「ありがと!」は余計な一言ですね。普通なら入れない。でも主人公の気持ちになるなら、まさに「よっしゃー!やったね!」であり、つまずいた子に感謝したいだろうなと思ったのでした。

ふと思い出しました。あるベテラン翻訳者が、同世代の知り合いの翻訳者を名指ししてこう言ったんです。彼の翻訳はうまくてテンポがよくて読みやすいが、原文から少し外れているところがある。本当は原文に忠実でなければ翻訳とは言えないのだから、そのやり方はどうかと思う、と。おそらく知り合いの翻訳者は「ありがと!」を入れるタイプで、ベテラン翻訳者はそれをよしとはしないでしょう。

翻訳は「足さず引かず」が原則、と日頃言っている斎藤がこんな「余計な訳」を入れたのは、訳に遊びを入れてみたらどうなるか試したかったためです。すべての翻訳でこうした「余計な訳」を入れていいわけではないことはご理解ください。翻訳は原文ありきなので、原文を正しく読んで解釈するのは当然のこと。その上で、著者の思考や登場人物の感情をどう追って表現するかを考えます。決まりのある文法や構文よりずっと難しい…。

そこで宣伝をひとつ。さきほど紹介したサン・フレアアカデミーの文芸翻訳和訳演習の12月期が2025年1月から始まります。全4回。日程は「通学・オンライン科スケジュール」をご覧ください。

譜面通り、文法通りの訳文を作ることを基本にして、プラスアルファの彩はどう施せばいいかを一緒に考えていきます。12月期に読む作品はKatherine Mansfieldの短編Life of Ma Parker

全編で2500ワード程度。孫を看取ったおばあさんの抑制された悲しみがにじみ出る作品です。課題は各回400~500ワードほどの範囲です。他の受講生の訳を参考にしながら、自分の訳を磨いてみませんか?

斎藤静代

東京外国語大学英米語学科(当時)卒。産業翻訳や大学受験添削指導を経て出版翻訳へ。出版翻訳歴20余年。訳書は『オードリー リアル・ストーリー』(アルファベータ)、『ロシアの神話』(丸善ブックス)、『ドラゴン:神話の森の小さな歴史の物語』(創元社)、『ママ・ショップ』(主婦の友社)、『千の顔をもつ英雄』(早川書房)、『バレエの世界へようこそ』『刺繍で楽しむイギリス王立植物園の花たち』(ともに河出書房)など。サン・フレアアカデミー誤訳コラムで「ノンジャンル誤訳研究」を執筆中。

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