翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

海外だより

2023.12.12

2023年を振り返って

ご近所の邸宅の入り口に飾られたクリスマス・イルミネーションは奥まで続く。あまりの豪華さと美しさに車を停めて撮影した。

今年もあっという間の一年であった。「光陰矢の如し」というが、残念ながら、年齢を重ねるごとに「矢」どころか「鉄砲玉」のように一年が過ぎていく。

今年は昨年に続き、夫の大学ポートランド州立大学(PSU-Portland State University)での英語歌舞伎公演が5月末に控えていた。「弘知法印御伝記〜The Adventures of High Priest Kochi」の衣裳の準備は少しずつ進めてはいたが、具体的には3月末から5月にかけて集中的に制作に取りかかった。

アメリカと日本の行き来

我が家は熊本に住む95歳の母が昨年8月から入院中で、今年は年始めから熊本に行った。しかし、母が比較的に安定しているので、私は2月初旬ポートランドに戻った。ところが母の具合が悪いとの報告を受け、3月初めにまた熊本に帰った。そして、滞在中に母が少し安定し歌舞伎の準備も始まるので、2週間ほど過ごしポートランドに戻った。太平洋間を行ったり来たり!
姉と義兄には、「もし母に何かあっても、私は英語歌舞伎の衣裳の責任があるので、とにかく5月末まで日本には帰れない!!」と告げて戻った。
私は、「お母さん、どうにか5月末まで生きていて!!」と日々祈った。
「The Adventures of High Priest Kochi」の公演は、オーディションで選んだキャストの素晴らしい活躍で、4日間毎晩観客総立ちのスタンディングオベーションをいただき、大成功に終わった。母はまだ入院中であった。

*Portland State University 5/27/2023
「弘知法印御伝記〜The Adventures of High Priest Kochi」

私は、歌舞伎が終わった後衣裳などの片付けを済ませ、母に会うために6月半ばからまた日本に行った。コロナの感染を恐れている病院では、入院中の母にはこの時期1週間に2日しか会えなかった。しかし、まだ家族を認識できる母に会うことは、私にできる精一杯の親孝行だと思った。

9月20日と23日の日本公演

私には、9月にもう一つ大事な仕事が控えていた。
9月20日に早稲田大学大隈講堂にて「弘知法印御伝記〜The Adventures of High Priest Kochi」の3時間公演を半分の90分に短縮して公演すること。引き続き、9月23日にも同じ演目を新潟柏崎の産業文化会館で「ドナルド・キーンセンター柏崎10周年記念式典」の一環として上演が企画されていた。
この2つの日本公演には、早稲田大学演劇博物館、ドナルド・キーン財団、ドナルド・キーンセンター柏崎、ブルボン吉田記念財団、NHKの取材及び放送、小学館からの援助金など、いろいろな団体や個人のサポートが関わっていたので、その責任の重さをヒシヒシと感じていた。特にドナルド・キーンセンター柏崎では、今年10周年の祝賀として、大きな記念式典の準備が着々と進んでいた。講演者として生前のドナルド・キーン先生と親しかった平野啓一郎氏を招聘されていた。その一環としてキーン先生とも、また柏崎とも所縁の深いPSU英語歌舞伎を企画に入れていただいた次第である。

日本公演には、ポートランドから主な役割を務めた学生たち6名と裏方を含め11名が行くことになった。

日本公演の準備にとりかかる

さて、7月半ばに日本からポートランドに戻った私は、この公演の準備を始めた。日本公演のために持っていく大型スーツケース七個分の衣裳や鬘、小道具を揃えていった。また衣裳の細かいところの直しなどを含め「忘れ物は許されない!」との思いで人物と衣裳と小道具を確認しながらまとめていった。

役者ごとにまとめた風呂敷。アイロンをかけた着物や袴、下着や足袋、草履も入っている。
刀や槍、錫杖(しゃくじょう)など長いものは、スーツケースには入らないので、
スキー用ケースを買って入れていった。

衣裳などの準備は、5月公演で使っていたので随分できていたが、PSU公演と違い出演者人数も3分の1と少なくなり、舞台の大きさも2箇所とも違うこと、黒子役もステージマネージャーもいないことが問題となっていた。
舞台背景、照明、舞台裏で鳴らすドラなどアメリカから持って行くことができない大小の道具、お墓など、準備のための話し合いを何度も重ねた。
また、どうしても柏崎公演では「字幕」を舞台で流したいとの要望があり、私は夫と2人で翻訳ではなく「字幕」の制作にかかった。

私は母の事が気になりながらも、日本に行く学生役者たちが病気や事故、怪我などしないようにと日々祈っていた。替えの役者も裏方もいないのだから、全員が無事に夏を過ごし9月20日の早稲田大学の公演のため東京についてくれることを祈るばかりであった。
そして、9月17日までにポートランドからの11名と日本から8名が全員揃った!!

本物の歌舞伎を観に行こう

夫と私は、大学の公演から日本公演まで頑張ってくれている学生たちに、東京で本物の歌舞伎を観てもらいたかった。偶然とはいえ、9月の歌舞伎座の演目が松本幸四郎の「土蜘蛛」であった。

大学の英語歌舞伎の中でも、仏道修行中の主役を「女郎蜘蛛」が誘惑する場面がある。この女郎蜘蛛役Reiは日本に行くのも初めてだが、本物の歌舞伎「土蜘蛛」を見ることができるのをこの上なく喜んだ。
Reiはアメリカインデアンの血を引いている。自分の先祖の部族「Cherokee」は、お婆さん蜘蛛が蜘蛛の糸で編んだ籠に「光と火」を入れて部族にもたらし助けてくれたと信じ、「蜘蛛」を大切にしてきた。
そして、自分のニックネームを「Spider」としている。

公演のための女郎蜘蛛の化粧。Reiは時間をかけ自分自身で本当に美しく描き上げる。

Reiの舞台上での熱演は、毎回どの舞台でも拍手喝采を浴びた。

9月17日に全員が揃い、18日のチケットを前もって買っていたので、裏方も加わって全員で観に行くことになった。学生たちは、本物の歌舞伎の豪華さ、衣裳の素晴らしさなどを十分に楽しんだ。

歌舞伎座の9月のチラシ。昼の部の公演が「土蜘蛛」だった。

歌舞伎を観たあとの記念写真。

早稲田大学公演

昨年2022年9月には、早稲田大学にて三島由紀夫氏の「鰯賣戀曳網〜The Sardine Seller’s Net of Love」の公演を行なった。今年も早稲田大学演劇博物館館長の児玉竜一教授が公演の機会を作ってくださった。また、今年の公演は、大隈講堂で行うことを提案され、すぐに会場を予約してくださったことに驚くとともに深く感謝した。しかし、「大隈講堂」である!そのような名誉ある大きな会場で公演できることを嬉しく思うと共に、集客は大丈夫だろうかと不安がよぎった。

公演がある9月には大学がまだ夏休みであること、広告など十分ではなかったにも関わらず、たくさんの方々に観に来ていただいた。特に夫が長く関わっている歌舞伎のイヤホンガイドの方々、歌舞伎に関わる本をたくさん執筆されている松井今朝子氏などの専門家の方々が興味を持って観に来てくださり、賞賛をいただいたことに苦労が報われた気がした。
実は、松井今朝子氏と夫は、昨年の早稲田大学での英語歌舞伎公演を松井氏が観に来てくださったことをきっかけに意気投合し、夫は、今年6月に発売された松井氏の「歌舞伎の中の日本」の解説を書かせていただいた。

*松井今朝子氏のブログに書いていただいた英語歌舞伎を観た感想。
2023年09月21日英語歌舞伎「弘知法印御伝記」

早稲田大学で作っていただいたパンフレットは32ページもある。

上演台本の英語台詞と翻訳した「字幕」が全て記載されている。

集団行動の難しさ

早稲田大学の公演も無事に終わり、新潟柏崎公演のために9月22日朝7時に東京駅に集合する予定表を全員に配布した。
ところが集合時間の午前7時になっても来ていない学生がいる。女郎蜘蛛役のReiである。集団行動が苦手で「何時までに〜してください」と言われても時間の感覚がほとんどない。責任感の強いMarleyに手伝ってもらって高田馬場のホテルからReiを東京駅まで連れてきてもらうことにしていた。しかし7時過ぎても来ないので、電話をしてみると、まだホテルにいて荷物のパッキングが終わっていないとのことだった。Marleyに頼んで、とにかく全てを詰め込んですぐにタクシーで東京駅に来るように頼んだ。どうにか間に合い、新幹線に全員揃って乗ることができた。

学生の一人は、新幹線に乗ったことがなく、切符を改札機械に入れ出てきた切符を取るのを知らず乗ってしまい、どこに座っていいのか分からない。車掌に連絡し、切符を確認してもらった。私は目的駅である長岡に着く8分前に席を回り、「各自荷物が多いので、自分の荷物を持ってすぐの下車できるように準備をしていてください」と全員に確認した。まるで修学旅行の添乗員のようだった。

5分前にまた車内を見回りに行くとReiが東京駅で買ったお弁当を食べ始めている!!「降りる準備をして!」と言ったのに・・・。もう目が「点!」だった。
「Rei、お弁当を食べるのをやめて荷物を確認し降りる準備をしてちょうだい!新幹線はあなたのために停車時間を延ばしたりしないわよ」、私はもうプッツンしそうだった。

私たちは、ドナルド・キーンセンター柏崎の方で準備していただいたバスに乗り、「弘知法印」の即身仏を拝観するために「西生寺」を訪れた。その後弘知法印に関わりの深い「弥彦神社」にも参拝し公演の成功を祈った。その間も小さなプッツンは積み重なった。


弘知法印の立像を前にポーズをとる弘知法印役の Jacob

弘知法印の即身仏が収められている霊堂。
NHKの取材班が長岡から同行し、ドキュメンタリーを作ってくださった。

弘知法印に関わりが深い弥彦神社にも参拝。

柏崎公演もたくさんの方々に観ていただき、地元が舞台の話に感動されたと聞き、本当に嬉しく思った。学生たち、裏方全員の活躍は素晴らしく、特に Reiの女郎蜘蛛の演技は絶賛され、NHK Worldでもなんども放映された。
柏崎公演を終え、翌日24日にドナルド・キーンセンター柏崎を表敬訪問した後、東京駅に無事に戻った。

日本での2つの公演が成功し、たくさんお褒めと感謝のことばをいただき、全員が無事に仕事を終えることができたことは、夫と私にとってこの上ない喜びであった。

*NHK World 9/21/2023
*NHK World 9/27/2023

東京での家探し

夫と私は、それから約1ヶ月日本に滞在し、公演後の雑用をすませながら東京で住居探しをした。
近年日本に行くことが多くなり、東京では息子のアパートに滞在させてもらっていたが、長期間滞在するとお互いに大変になる。やはり自分たちの住居が東京にある方が便利であると思い、昨年から日本滞在中に少しずつ探していた。しかし、なかなか良い物件に巡り合わなかった。不動産屋に頼んで内覧をお願いするのは、手間も時間もかかり本当に大変だった。ほとんど諦めかけていた今年10月、最後に内覧した世田谷区にある物件がとても気に入り、すぐに購入の手続きをした。
子供達が目黒区と世田谷区に住んでいるので、この近くが良いと思って探していた。

ポートランドと世田谷区の関係

実は、現世田谷区長の保坂展人氏は、ポートランドに何度か視察に来られていて、私はPSUの講演会でお話を伺う機会があった。とても誠実で世田谷区を住みよい街にしようと努力されている様子がうかがえた。「世田谷区に住めたらいいな〜」などと軽く考えていた。しかし東京都内のマンションの値段はうなぎのぼりで諦め掛けていた。まさか本当に世田谷区で住居を探すことができるとは思わなかった。

実はポートランドと世田谷区にはもっと深い繋がりがあることがわかり、2つの都市間ではいろいろな交流の場を設けているようだ。関係機関を訪れてみるのも楽しみである。


11月にポートランドに戻ってThanksgivingの祝いをした。クリスマスの準備に入った12月初めにシアトルに「北斎展」を見に行った。「北斎展」は、夫の友人で Boston Museum of Fine ArtsのCuratorである Sarah Thomson氏が企画した素晴らしい展示会であり、全米でボストンとシアトルだけで開催されることが決まっていた。

開国後19世紀から20世紀にかけ外国人によって買われ、自国に持ち帰られた浮世絵の展示会である。その数は世界中で何万点にも及ぶらしい。

数百年も前に描かれた浮世絵を鑑賞し、改めて日本の芸術の素晴らしさを認識した。平和な江戸時代があり、このような文化芸術が生まれ育まれてきたのだと思った。
歌舞伎もこの江戸時代に生まれ、今日の私たちを楽しませてくれている。

2023年はこのように慌ただしく過ぎっていった。
母は主治医が驚くほどの生命力で生きてくれている。
Wishing You a Happy Holiday Season!!

田中 寿美

熊本県出身。大学卒業後日本で働いていたが、1987年アメリカ人の日本文学者・日本伝統芸能研究者と結婚し、生活の拠点をオレゴン州ポートランドに移す。夫の大学での学生狂言や歌舞伎公演に伴い、舞台衣裳を担当するようになる。現在までに1500名以上の学生たちに着物を着せてきた。2004年から教えていた日本人学校補習校を2021年春退職。趣味は主催しているコーラスの仲間と歌うこと。1男1女の母。

Facebook Twitter LINE はてなブログ Pin it

このページの先頭に戻る