翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

海外だより

2022.12.23

日本滞在〜古浄瑠璃「弘知法印御伝記」について〜②

弥彦神社〜2013年2月、古浄瑠璃『阿弥陀胸割』を見るため新潟を訪れた

夫は、来年2023年度の英語歌舞伎「弘知法印御伝記」の公演の準備をすでに進めている。日本滞在中であった夫と私は、弘知法印の「即身仏」を拝観するために新潟県長岡市にある「西生寺」を訪れることにしていた。

「弘知法印御伝記」とは?

「弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」は*古浄瑠璃の一つである。弘知(智)法印は、様々な苦行の末、1363年に7年の時を経て日本最古の「即身仏〜ミイラ」になった実在の人物である。その即身仏が「西生寺」に安置されている。

*「古浄瑠璃(説教浄瑠璃)」とは、初代竹本義太夫(1651年〜1714年)が語った義太夫節よりも前の浄瑠璃を言う。近松門左衛門が活躍する以前の江戸時代初期に庶民に人気だった一人一体で人形を操る人形芝居のことで、素朴な力強さや宗教色が強いのが特徴。
「浄瑠璃」:三味線を伴奏とする語り物の一つ。元は琵琶伴奏による語り物のうち、牛若丸と浄瑠璃姫の物語に由来すると言われ、後に三味線を伴奏とするようになり多様化した。人形操り芝居と合わせ広く普及するに伴って、語り物そのものを「浄瑠璃」と呼ぶようになった。

1625年の「絵入り古浄瑠璃本」の1ページ
「絵入り本」だったことが外国人を魅了したのかもしれない
R. Keller Kimbrough 所蔵

この即身仏になった「弘知法印」の生涯を基にした古浄瑠璃が「弘知法印御伝記」である。1600年代後半に江戸で上演されたこの浄瑠璃は、実在した弘知法印が新潟県の弥彦山近くの猿ヶ馬場の岩坂で「即身仏」になったため、舞台は新潟「越後國柏崎〜えちごのくにかしわざき」となっている。

日本最大の弥彦神社鳥居と弥彦山

「弘知法印」の人生とは?

弘知法印の人生〜自らの放蕩が原因で妻が殺され、息子たちとも離別。出家し、その後家族と再会する。お家再興、様々な奇跡との出会い、そして苦行の末日本最古の「即身仏」になるという波乱万丈の生き様を描いている。虚構を加えた「物語」は、江戸の人々の人生観に合い、江戸時代初期によく上演され、浄瑠璃本も印刷されていた。しかし、時を経て他の約100冊余りの浄瑠璃本は残されたが、「弘知法印御伝記」の本は全て消滅し、浄瑠璃も上演されなくなってしまった。
尚、森鴎外の代表作「山椒大夫」は、説話、古(説教)浄瑠璃「さんせう大夫」をもとに書かれた小説である。

古浄瑠璃本「さんせう大夫」〜船上で母親と別れる安寿姫と厨子王丸

山椒大夫の奴隷となった安寿姫と厨子王丸
弟厨子王丸を逃したことで拷問に合い命を落とす安寿姫
Keller Kimbrough 所蔵

「弘知法印御伝記」本の消滅300年後、イギリスで起きたことは?

約300年後の1962年、早稲田大学の国文学者であった故鳥越文蔵氏がイギリスのケンブリッジ大学に派遣された際、大英博物館から「正体不明の本」があるので調査をしてほしいと依頼された。本は保存状態も良く、その中の1冊が1685年に「うろこたがや」という版元から新書で出版された「弘知法印御伝記」の「絵入り浄瑠璃本」であった。日本橋で説教浄瑠璃をしていた江戸孫四郎が時代を「平安時代」に大きく変えて物語にした本で、日本には現存しない本であることが明らかになった。
その本に書き入れられた文から、江戸時代初期、長崎の出島に来ていたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが、オランダ商人が将軍徳川綱吉に謁見するために江戸に行く際同行し、この本を本屋で買い求めた。彼は1692年に離日する際、船底に隠し秘密裡に持ち帰ったようだ。この本は他の蔵書とともに、ケンペルの死後、イギリス人の医師、科学者であり、収集家であったハンス・スローンの手に渡った。スローンの死後、1753年、彼のコレクションは大英博物館設立の元となり、蔵書も大英博物館所蔵となった。「弘知法印御伝記」は、1963年に鳥越文蔵氏に紐解かれるまで長い間「中国の書物」と誤認され、大英博物館内で死蔵されていた。

「弘知法印御伝記」の原本は今でも大英博物館所蔵となっているが、鳥越氏は、その複写本を日本に持ち帰り、1966年に日本でも翻刻出版された。

40年後の2007年、鳥越氏の友人であった日本文学者の故ドナルド・キーン氏が古浄瑠璃「弘知法印御伝記」復活上演を鳥越氏に提案された。その後、300年の時を超えた上演に向けての活動が始まっていく。

「古浄瑠璃」の復活上演に向けて

鶴澤浅造氏は、25年以上「*文楽」の舞台で三味線を弾いておられたが、新潟県柏崎出身であり、「弘知法印御伝記」との地縁からこの人形浄瑠璃の復活上演の実現に深く関わっていかれることになる。

*「文楽」は人形浄瑠璃の1系譜で「人形浄瑠璃文楽」の略。起源は17世紀後半に竹本義太夫が大坂(現大阪)で創始した「義太夫節」であり、人形浄瑠璃の劇作家として有名な近松門左衛門が多くの時代物、世話物の作品を書いた。

鶴澤浅造氏は、鳥越文蔵教授の許可を得、ドナルド・キーン氏から芸名「越後角太夫」の命名を受け、佐渡在住の文弥人形の人形遣いである西橋八郎兵衛氏とともに「越後猿八座」を立ち上げられ上演実現に向け尽力されていく。

このプロジェクトは、2009年柏崎市、新潟市、2010年東京、そして2017年6月にはイギリス大英図書館にて上演されるに至った。夫は、アメリカに住んでおり、仕事の都合上残念ながらどの公演も観ることが出来なかった。しかしイギリス公演の英語字幕は、夫が英訳を引き受けた。

「弘知法印御伝記」を見ることができなかった夫とわたしは、2013年2月
新潟市で公演された「猿八座」の「阿弥陀胸割〜あみだのむねわり」を観に行った

2013年3月、鳥越文蔵氏とドナルド・キーン氏の「弘知法印御伝記」についての対談、また鶴澤浅造氏の「素浄瑠璃」の弾き語りが東京であったので、夫と私は、留学中だったPSUの学生たち、私は自分の家族を連れて10名で観に行った。

講演会の手書きの看板

講演の中で、鶴澤浅造氏が「弘知法印御伝記」の解読、そして*文弥節を無から作成される様子を撮影したドキュメンタリー映像が公開された。
鶴澤氏は、鳥越文蔵氏、ドナルド・キーン氏、西橋八郎兵衛氏たちとこの古浄瑠璃を解読し活字に起こす作業に専念される。また文弥節を作成し公演にこぎつけるまでに2年の歳月を要されたとのことだった。翻刻出版された本は原本に近いわけであるから、江戸時代初期の文字で書かれた文章を解読できる人は少ないだろう。

*文弥節と義太夫節
文弥節:古浄瑠璃の流派の一つ。大坂(現大阪)の「岡本文弥」が17世紀後半に創始。哀調をおびた旋律が特徴で、「泣き節」と言われて人気を博したが、18世紀初期に義太夫節に押されて衰退した。現在は佐渡の郷土芸能として伝承されている。
義太夫節:17世紀後半、大坂の「竹本義太夫」が始めた浄瑠璃の一種。略して「義太夫」ともいう。国の重要無形文化財。

講演後、私は鶴澤浅造氏に、
「浅造先生、2年もの間、こんなごにゃごにゃ文字を解読し『文弥節』を作られるのは本当に大変だったでしょう。ご苦労をお察しします」と言ったところ、
鶴澤氏は、答えた。
「いえいえ、寿美さん。楽しかったのですよ。本当に!!この作成に没頭している間、私は楽しくて仕方がありませんでした!」

鶴澤氏は、その後ドナルド・キーン氏が2011年の東日本大震災後日本国籍を取られた翌年2012年、キーン氏のご養子となられた。
2019年にキーン氏が逝去された後「ドナルド・キーン記念財団」を立ち上げられ、キーン氏の積年の功績を後世に伝える仕事をされている。
尚、御養子縁組以降、お名前を「キーン・誠己」としてご活躍されることも多くなった。
(参照:日本滞在〜英語歌舞伎講演会とドナルド・キーン展示会〜①

夫は、古浄瑠璃である「越後國柏崎・弘知法印御伝記」を英語に翻訳し、来年2023年5月に学生『英語歌舞伎』の公演をする準備に取り掛かっている。日本滞在中、鶴澤氏と協力し台本を書き、文弥節の稽古をしている。

夫と私は10月半ば、来年の公演のため弘知法印の即身仏が安置されている新潟県長岡市の「西生寺」を参拝した。〜つづく〜

田中 寿美

熊本県出身。大学卒業後日本で働いていたが、1987年アメリカ人の日本文学者・日本伝統芸能研究者と結婚し、生活の拠点をオレゴン州ポートランドに移す。夫の大学での学生狂言や歌舞伎公演に伴い、舞台衣裳を担当するようになる。現在までに1500名以上の学生たちに着物を着せてきた。2004年から教えていた日本人学校補習校を2021年春退職。趣味は主催しているコーラスの仲間と歌うこと。1男1女の母。

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