翻訳ひといきコラム

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海外だより

オーストラリアで起業する(1)

「リチャード・ブランソンのような『Entrepreneur(日本語ではアントレプレナー)』になりたい」。このエッセイの前の回にも登場する当時のライフパートナーDが、付き合い始めた頃から寝言のように繰り返していた。リチャード・ブランソンがヴァージングループの創始者であることくらいは私も知っていたが、発音が厄介な『Entrepreneur』というこの単語は聞いたことがなかったし、意味を学んだ後にも私には無縁なものだと思っていた。ところが今から12年前、Dが「自分達で不動産会社を立ち上げよう」と言い出し、アントレプレナーが他人事ではなくなった。Dの希望で一緒にボロボロの家を購入し、週末は全て家のリノベーションに費やすこと約2年、ようやく終わりが見え始め、時間的、経済的、肉体的、精神的に一息つけるかと思い始めた矢先のことだった。「起業なんてとんでもない!」一応は反対したものの、一度決めた事は絶対に曲げないDの性格は、家を買った時の経緯でよくわかっていた。当時私はケアンズの大手不動産会社で社長秘書として働いて4年、ようやく仕事を楽しいと思い始めた頃だった。一方Dは私と同じ会社の違う支店で不動産営業マンとして働いて2年半、まだまだ駆け出しだった。ケアンズの不動産市況は最悪で、不動産会社や開発業者が次々に倒産していた。そんな中、資金もコネも十分な経験もない私達二人が会社を開けるなんて、今思うと正気の沙汰ではない。「ビジネスのビの字も知らない」Dと、「オーストラリアでは何でも有りかも」と勘違いしてしまった私の「起業する」という計画は、周りの人達から猛反対された。Dの上司はDが会社を辞めることを快く思わないという理由も有ったが、それ以上に私のことも心配してくれて、真剣な眼差しで「ミホ、君の人生で最大の間違いを犯そうとしているよ」と言われたのを今でもよく覚えている。知り合いの不動産投資家の男性からは、”If you survive one year, I will take my hat off to you.”「会社が一年もったら、君達を尊敬するよ」と何度も言われ、私は”take hat off”というイディオムを覚えた。周りの人達のあまりにもネガティブな反応に少し自信を失ったDは共同経営者を探し始め、当時私と同じ職場で不動産営業マンとして働いていたSが名乗りをあげた。私達より少し若いSは、クイーンズランド州の州都・ブリスベンで不動産会社を共同経営した経験があるとのことで、「彼が一緒にやってくれるのなら心強い」とDも私も大喜びだった。しかしSが持ってきたビジネスプランを見て絶句した。「不動産会社の収入は、賃貸管理手数料と売買手数料で成り立っている。売買手数料は流動的だけれど、賃貸管理手数料は安定しているので、給与や家賃などの固定費を支払うためには賃貸管理からの収入が不可欠。賃貸管理手数料を確保するためには、まずはある程度の賃貸管理権を購入しなければならない。その費用が約25万豪ドル(一豪ドル百円計算すると日本円で約2千5百万円)、オフィスの設置や看板、広告、ウェブサイト立ち上げ、賃貸管理用の車の購入なんかに約5万豪ドル(約5百万円)。合計約30万豪ドル(約3千万円)の開設資金は自分のお父さんに借りる」というものだった。Sの父親は地元の資産家で、息子の新しいビジネスへの出資に乗り気だという。今になってみると、Sの試算は不動産会社が安定的な経営を行っていく上で極めて正当なものだった事がよくわかるが、当時の私達は何もわかっていなかった。「会社を始める前から30万豪ドル(約3千万円)もの借金をするなんて、とんでもない。そんなにお金をかけなくても起業できるはず」と、Sからの申し出を断った。

オーストラリアで起業するのは難しくない。会社設立の手続きは会計士に依頼する人が殆どだが、今はネットでも簡単に会社開設ができる。資本金も不要なため、誰でも気軽に起業できる。日本とは異なり大企業が少なく、終身雇用制度が無いオーストラリアでは、「良い大学に入って一流企業に入る」ことを目標にする概念が無く、人の下で使われるよりも、小さくても一国一城の主を目指す人が多い。「自分でビジネスをやっている」あるいは「やったことがある」という人は、日本に比べるとはるかに多い。

従業員を雇わず一人で働いている人が全体の62.8%。
誰かの下では働きたくないというオーストラリア人が多いのが覗える。

会社設立方法等については、政府のウェブサイトでもかなり親切に説明されており、税金の支払い方については、起業する前に税務署の人が自宅にまで来て流れを説明してくれた。スモールビジネスが全体の95%以上を占めるオーストラリアでは、起業する人や起業した後の人達に対して、様々なサポート体制がとられている。

起業をする人に向けた政府のウエブサイト
Googleで“how to start the business”と入力すると1頁目に出てくる。

会社立ち上げにまず必要なのは会社名の決定だ。政府の会社名登録のウエブサイトを見て、未だ使われていない会社名を選ばなければならない。私はケアンズの特産品であるバナナからBanana Realty(バナナ・リアルティ)を推したが、バナナというのはちょっと間抜けなイメージがあるとのことで却下された。私とDの頭文字をとってD&M リアルティ、M&D プロパティなども考えたが、既に他の人が登録していて使えなかった。数か月間考え抜いた末、結局Dのファーストネーム・ミドルネームの頭文字とファミリーネームを使ってDJスミス・プロパティという名前に決めた。オーストラリアの大手フランチャイズの不動産会社ではLJフッカー、レイ・ホワイト等、創業者の名前をそのまま使っている会社も多い。スミスはありふれた名前なので、フランチャイズのように聞こえるかも?という目算もあった。実際オーストラリア人のお客さんから「あなたの会社の看板、シドニーでも見たわ」などと言われることがある。嬉しい勘違いだ。5年前にDの持ち分を買い取って私が100%オーナーになった時「元彼の名前が入った社名を使い続けるのはおかしい。社名を変えるべき」と友人達からアドバイスを受けた。新しい社名に変えることも考えてみたが、名前を変えることによるプラス面とマイナス面を比較して、既存の名前を使い続けることに決め、現在に至っている。

会社名が既に登録されていないかを確認する政府のウエブサイト

起業時に社名決定以外の必要要件は業種によって異なる。不動産会社の場合は、販売員としての資格に加えて事務所を開くための資格が必要で、私達の場合はDが数か月かけて通信教育で取得した。またビジネス保険、賠償責任保険の取得が必要で、年間約30万円の保険代は痛い出費だった。それ以外には不動産情報データベース、契約書等法的書類作成のためのソフトウエア、オーストラリアで住宅を探す人の9割が使っているウエブサイトとの広告契約、コンピューター、プリンターの購入、等が起業時には最低限必要だ。

Sの試算では開設資金約30万豪ドル(日本円で約3千万円)必要とのことだったが、私達は当時所有していた家の住宅ローンの借入れ額を増やして銀行から2万豪ドル(約2百万円)を借り入れて、開設資金に充てた。自宅のリビングルームの片隅に机二つを置いて会社をオープンした。2011年4月終わりのことである。(次号へ続く)

熊谷 美保

福岡県出身。2003年通訳・翻訳の勉強にオーストラリアのメルボルンへ。 2007年、ケアンズへと移り地元の不動産会社に就職。その後、当時のパートナーと不動産会社DJスミスプロパティを設立し、2017年に単独オーナーとなる。 ケアンズで不動産仲介、賃貸管理業務を行い、日本人のお客様にもご愛顧頂いている。 今は翻訳の仕事から離れているが、いつの日かオーストラリア人作家の作品を日本に紹介するのが夢。

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