海外だより
2022.04.06
そうだ、京都へ行こう!
コロナ禍が始まる数年前の六月、五十歳になった。私が暮らすオーストラリアでは、五十歳のような節目の誕生日には、レストラン等に招待客を招いて盛大なパーティをする人が多い。元来社交的でない私はパーティは苦手だし、仕事が忙しくて招待客のリストを作る時間も場所を選ぶ気力も無かった。家族がいれば「家族だけお祝いするから」と逃げ道もあるのだが、悲しいかなシングル・子供なしの私にはその選択肢も無い。オージーの友人から「誕生日、どこでやるの?会場はもう予約したの?」とせっつかれる中、「面倒くさいなぁ。誕生日はここにいたくないなぁ」と気が重くなった。そして突然、昔テレビCMで見たキャッチコピーのように「そうだ、京都へ行こう!」と思い立った。京都の短大へ通っていた私は、二十歳の誕生日を京都で迎えた。あれから三十年、二十歳の時に思い描いていた五十歳の自分とは大きくかけ離れているが、そんな私を京都がどんな風に迎えてくれるのか、私は京都の街で何を感じるのか、五十歳の誕生日を京都で一人で迎えてみたくなった。毎年一度は仕事を兼ねて、日本へ帰省するようにしているが、今回は仕事も両親が暮らす福岡への帰省も無し。母にそれを伝えると「私も京都へ行くから、一緒に誕生日をお祝いしましょう」と言われたが、「今回は一人旅をしたいから、ごめんね」と断った。
ケアンズ空港から関西国際空港へ直行便で約八時間、到着は夜の八時頃。空港のシャトルバスで関空温泉ホテルへと向かった。久しぶりの大きなお風呂、お風呂の後にはコーヒー牛乳、「これぞ温泉!」という感じで、嬉しくてニヤニヤするのをこらえるのに苦労したのを今でもよく覚えている。
次の日は京都へ向かい嵯峨野を散策した後で、女性専用の宿坊・鹿王院を訪ねた。宿坊はお寺の中にある宿泊施設で、お寺によっては座禅をしたり、写経が出来る所もある。鹿王院はお庭が有名な禅寺で、夕方着いた時には雨が降っていて庭の緑がとても美しかった。ここに二泊したのだが、一泊目も、二泊目も、一人旅の女性二人と相部屋になった。
鹿王院で泊めて頂いた部屋。奥の部屋に3人が川の字に布団を敷く。
一泊目の同部屋の女性二人は私よりも年上で、共に関東からだった。「母が大阪の施設に入ってて時々見舞いに来るの。京都にはたまに息抜きに来るのよ」という女性と、「京都の寺院が好きで、主人に留守番を頼んで定期的に京都へ来るの」という女性。「ご主人と一緒に来られないのですか?」と尋ねると、「ありえないわ!」と大きく笑った。宿坊初心者の私とは違い、二人とも宿坊をよく使うらしかった。旅の情報を交換したり、ほんの少し自分の話をしたり、二人とも距離感をわきまえているというか、喋りすぎることもなく、お互いを詮索することもなかった。二人と私は住んでいる環境が全く異なっていたが、二人に将来の自分が重ねて見えた。翌朝は精進の朝ご飯を一緒に頂いた。朝食の後、お寺を出発する二人と一緒に黙って庭を眺めた。雨が上がった後の庭は前日とはまた違った美しさだった。何となく別れがたく、私は「お庭をバックにお二人の写真を撮らせてください!」と言ってしまった。「え?私達はいいわよ。あなたの写真を撮ってあげるわよ」と言う二人に無理やりポーズをってもらい、名前も知らない先輩女性二人の写真を携帯で撮った。
その日は嵐山の観光地を見てまわった。学生時代に行った所も有ったが、どこに行っても何を見ても新鮮だった。竹林の間をそよぐ風、お寺で聞こえる読経の音、寺院の苔の匂い、ずっと長い間忘れていた私の中の何かに響いた。「ここに来られて良かった」と心から思った。
嵐山の美しい竹林は修学旅行の定番コースでもあるようだ。
宿坊に戻る途中で銭湯を見つけた。学生時代に何度か通った京都の銭湯、嬉しくなって暖簾をくぐると、番台にはお人形さんのように小さなおばあさんがちょこんと座っていた。「何も持ってないんですが・・・」と言うと、ニコニコ笑ってタオルと使い捨てのシャンプーを売ってくれた。脱衣所には常連さんらしきおばあさんが一人。「トイレはこっち。洗面器はこれ使い」と教えてくれた。お風呂から上がった後、一日歩き回って汗をかいた洋服をまた着なければいけなかったが、それでも清々しい気分だった。
鹿王院近くの銭湯。
宿坊に戻ってみると、二人の新しいルームメイト(?)が荷解きをしているところだった。一人は二十代後半だという女性で、東京の銀行に勤めているという。私が海外に住んでいると知ると、「自分も海外留学をしたいが家族の反対も有るし、結婚する時期を考えて迷っている。でも銀行で働き続けるのも違う気がする」と話してくれた。もう一人は大阪でマッサージ店を複数経営しているという私と同年齢に見える女性で、宿坊の常連客らしく、サバサバとしていて早々に床に就いていた。銀行員の女性と私は、声を落として海外留学や海外での暮らしについて話を続けた。彼女と同じ年頃のころ、私もあんなふうに悩んでいたなぁ。私は若い彼女に昔の自分を重ねていた。膝を抱えて私の目を真っ直ぐに見て話してくれる彼女に、「大丈夫だよ、留学しても、しなくても。海外生活しても、しなくても。きっとうまくいく」私は彼女に、そして昔の自分に心の中でエールを送った。その日、私は五十回目の誕生日を迎えた。
嵯峨野の宿坊に二泊した後は、祇園にある遊行庵という宿坊へと移った。エレベーター付きの個室で、宿坊というよりも普通の旅館といった感じだったが、早朝に丘の上にあるお寺での読経に参加することが出来た。三十年前に私が通った短大は仏教系の学校で、一年間過ごした寮では毎朝お仏参とよばれる仏教賛歌の合唱があった。三十年ぶりの読経は、自分の声が出ないことにショックを覚えると同時に、オーストラリアの生活では触れることがない言葉や音の響きに、心を揺さぶられた。私以外にもう一人女性の参加者がいて、宿坊で完成させたという写経をお坊さんに手渡し、簿記の資格試験合格を祈願したいと真剣に頼んでいた。三十代後半に見えるその女性は読経が終わった後で、四国に住んでいて、転職のために簿記の資格がどうしても欲しいのだと話してくれた。
今宮神社のあぶり餅が大好きで、京都へ来ると必ず食べに行く。
旅の後半は、奮発して憧れだった東山のハイアットリージェンシーに泊まった。昔通った短大(今は大学だけになってしまったが)や寮がホテルのすぐ側で、チェックインした日は、たまたまその大学の同窓会がホテルで開かれていて、ロビーでは着飾った中年女性達の集団の華やかな話声が飛び交っていた。「私もあの中に居たかもしれないんだなぁ」と思うと不思議な気がした。地元の福岡で高校を終えた後、京都を進学地として選んだのは、多くの同級生が選んだ東京は私には忙しすぎると思えたし、高校時代の友人達とは違う環境に自分をおきたいと思ったからだった。バブル期に当たる京都での短大時代、私は何を思っていたのだろう。二十歳の誕生日に何を夢見ていたのだろう。
ホテルに三泊した間は、鴨川を渡った所に見つけたヨガの教室に毎日通い、学生時代に通った和菓子屋さんをはしごし、東山の寺院を散策した。四条河原町のブティックで洋服を買い、ホテルでエステも堪能した。途中、関西に暮らすお客様が「誕生祝いに」と東山の有名な料亭に連れて行ってくださった。他の部屋には舞子さんも来ていて、人生で最初で最後だろうという贅沢なコース料理を頂いた。着物姿の女将さんが部屋に挨拶に来られて、「お誕生日、おめでとうございます」と柔らかな京都弁で頭を下げられて、いたく恐縮した。
憧れの菊乃井の懐石料理。味もさることながら、見た目の美しさに感動した。
あれから五年が過ぎ、あの時のように簡単に旅行が出来ない非日常が日常になりつつある今、あの旅のことを、そして旅で出会った女性達のことを時々思い出す。宿坊で部屋を共にした女性達、銭湯のおばあちゃん、一緒に読経をした四国の女性、ヨガクラスの元気な先生、ちゃきちゃきした和菓子屋のおばちゃん、神戸から京都へ毎日通っていると言っていたブティックの店員さん、オーストラリアにダイビングに行きたいと言っていたエステシャン、高級料亭の女将さん、もう二度と会うことがないであろう彼女達。それぞれの場所でひたむきに生きている彼女達は、昔の私であり将来の私でもある気がする。彼女たちのおかげで、そして京都という街のおかげで、私は忘れられない五十歳の誕生日を迎えることが出来た。二十歳の時には五十歳の自分が結婚もせず、子供も産まずに外国で暮らしているなんて思ってもいなかった。二十歳の私が今の私を見たら幻滅するのかな、ガッカリするのかな。でも二十歳の私に言ってあげたい。「あなたが思っている人生とは違うかもしれない。でも五十歳のあなたは幸せで、結構楽しく暮らしてるよ」って。
また近い将来「そうだ。京都へ行こう!」と思う日がきっと来るだろう。その時はマスク無しで、ソーシャルディスタンスなんて気にせずに、大好きな京都の街を歩き回りたい。
熊谷 美保
福岡県出身。2003年通訳・翻訳の勉強にオーストラリアのメルボルンへ。 2007年、ケアンズへと移り地元の不動産会社に就職。その後、当時のパートナーと不動産会社DJスミスプロパティを設立し、2017年に単独オーナーとなる。 ケアンズで不動産仲介、賃貸管理業務を行い、日本人のお客様にもご愛顧頂いている。 今は翻訳の仕事から離れているが、いつの日かオーストラリア人作家の作品を日本に紹介するのが夢。