翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

海外だより

2026.03.18

アメリカでの「人生の終末」を考える④

2025年9月7日、義母の「Celebration of Life ~ Eleanor Hart Condliffe」会場にて

葬儀はしない?

夫と私にとって、家族がアメリカで逝去し、その後の諸手続きの責任を負ったのは初めてのことだった。

義母に最後に会って欲しい親族には、亡くなる直前まで遠くからも会いに来てもらった。義母が亡くなった時、孫である私たちの子供たちは日本から来て数日を過ごし、日本に戻ったばかりだった。また義姉もミシガンに帰っていたので、もし葬儀をしたとしてもまた葬儀のためにポートランドに戻って来ることは難しかった。

「葬儀はしない?」

夫は、「母は、リタイアメントホームから直接火葬予定日まで遺体を預かってくれる施設に預ける」そして、そこで私と2人でお別れをするが、「宗教や儀式的な葬儀はしない」と言った。

夫の父は、子供たちが小さい頃、ユダヤ教から日本で言えば神道に近いような「ユニタリアン 〜 Unitarian」に改宗した。義母は子供たちが幼い頃、ほとんど毎週日曜日にユニタリアンの集会に通った。しかし、その後40年近く宗教に関わることはほとんどなかった。そして自分の葬儀で牧師に祈祷や説教を依頼したいという遺言もなかった。

2024年11月、母を日本の仏教式葬儀で送った私には、葬儀を執り行わないことは不思議な気持ちがした。しかし、それぞれの国や宗教、そしてそれぞれの家族で見送り方は違うのだと思った。

夫と私は、火葬予定日直前に、最後のお別れをしに義母の遺体を預かってくれている施設に行った。義母は、私が準備した義母が好きだった服に着替えさせてもらっていた。義母は緑色が好きだったので、余分に着替えの服を持たせ、また亡くなる数ヶ月前まで施設のプールで泳いでいたので水着を揃えた。

義母は、白地に赤と黒の模様のジャケットを着て、赤いベレーボーを被って眠っているかのように横たわっていた。夫と私は、義母の冥福を祈り最後のお別れをして施設を去った。

数日後、火葬が終わった連絡を受けた私たちは、遺灰(アメリカの火葬では、『遺骨』ではなく『遺灰』となる)を受け取りに同じ施設に行った。

義母の遺灰は、2026年2月にルイジアナ州ニューオリンズのご先祖さまが眠るお墓に納めに行くまで我が家の書斎に置いておくことになった。

Celebration of Life

しかし、葬儀をしない、あるいは近親者のみで葬儀を執り行う場合、アメリカでは後日改めて故人を偲んで、友人、知人、お世話になった方々を招き「Memorial Service」をすることが多い。

日本でも家族葬が増え、特に有名人などの場合、後日「偲ぶ会」「お別れの会」などを開催する家族も多いと思う。しかし、一般的な家庭では、葬儀がその役割を果たし、後日改めた会を企画し催すことは少ないのではないだろうか。

また日本では、仏教葬の場合、葬儀後も初七日、四十九日、一周忌など家族や親戚が集まって法要をすることがあるが、アメリカではこのような習慣はないので、このメモリアルサービスがその役目を果たしているかもしれない。

アメリカで「Memorial Service」という言葉は、故人を悼み、思い出を語る会として長い間使われてきた。しかし、近年「Celebration of Life~the person’s name」と称し、「故人の生誕と人生を祝う会」としてのセレモニーが好まれるようになってきた。思い出よりも「人がこの世に生を受け、生きてきた人生を祝福する」と言うことだろうか。とても良い名称のサービスだと思う。

会を催す時期は、家族によって1週間後、数週間後、数ヶ月後、1年後などと違う。故人の思い出の写真を展示用に集め、ビデオを作り、人を招待するため、急に亡くなった場合、準備に時間がかかり数週間後となることが多いようだ。

我が家では、「Celebration of Life~Eleanor Hart Condliffe」と称し、このサービスを義母が他界した3ヶ月半後に行った。

セレモニーの準備をする

このような会を催すにあたって最も大切なことは、家族や親戚、故人の友人たちができるだけ多く参加できる日にちを決めることだ。義姉はミシガン州、義弟はニューハンプシャー州、孫である私たちの子供たちは東京に住んでいるので、人の移動が多い夏休みを避け、9月7日に行うことにした。

会場をどこにするかが次の問題であった。義母はワインが大好きで、ほとんど毎晩夕食時に食事の内容に関わらずワインを飲むことを好んだ。

「お義母さんはワインが大好きだったから、サービスをワイナリーでするという案はどうかしら?9月だとお天気もいいし、参加者にも喜んでもらえると思うけれど・・・」私は夫に提案した。

「それは面白いかもしれないね。でも、会場で故人の思い出の映像を映す場所はあるだろうか?」

「ワイナリーでの結婚式ってよくあるから、場所を選べばきっと素敵なところがあると思う」

「ワイナリーまでの移動はどうだろう?車社会だからその場所まで車で行くことはできる。しかし、飲みすぎると飲酒運転になる?エレノアと仲が良かったリタイアメントホームに住んでいる人たちの移動は、バスでも借りないと難しいかもしれないね」

結局、親しかったリタイアメントホームの人たちのことを考え、ワイナリーは諦めることにした。リタイアメントホームの関係者に尋ねると、入居者が死去し退去した後でもこのホームの集会施設を利用できるとのことだった。

この施設内で全てを行うことができれば、エレノアの友人たちも気軽に車椅子でも杖をついてでも参加できるという利点がたくさんある。すぐに夫と私はこの施設の会場を借りることに決めた。

リタイアメントホームの集会会場にはグランドピアノもある。

セレモニーの内容を決める

アメリカでこのようなセレモニーは、亡くなった家族の宗教、個人の意思や嗜好を大切にした催しがなされる。教会に所属する家族は牧師を招いて説教を聞き、讃美歌を歌うことも多い。この地域で長い間日本舞踊の指導をされていたお師匠さんのサービスでは、お弟子さんたちが踊りをたくさん披露してくださった。

では、義母は何を望むだろうか?何か義母が喜んでくれるような会にしたい。

義母はクラッシック音楽、そしてオペラをこよなく愛した。

「何らかの音楽を入れた会にしよう!」と決めた。

私は、主催していたコーラスグループの伴奏を長い間引き受けてくれていた美雪さんに相談した。すると数日後嬉しい答えが返ってきた。

「娘のこはるがバイオリンを弾いて私が伴奏するのはどうですか?」

「九月だと、こはるちゃんの大学はすでに始まっているでしょう?」

「こはるは、エレノアさんがいつも自分の演奏会に来て応援してくれていたので、サンフランシスコから帰ってきて、エレノアさんのためにお別れのバイオリンを弾きたいと言っているの」

夫と私は、美雪さんのお嬢さんたちのコンサートなどにエレノアを連れてよく聴きに行っていたが、まさかこの会のために曲を練習し、サンフランシスコからポートランドまで帰ってきてくれるとは思いもしなかった。

バッハが好きだったので、バッハともう一曲弾いてくれることになった。また招待客が入ってくる間、軽い曲を演奏し出迎えてくれるとのことで、本当に嬉しく感謝しかなかった。

美雪さんのピアノとこはるちゃんのバイオリン演奏は素晴らしかった!

また夫は、大学の英語歌舞伎のために作曲をしてくれた箏奏者のAmyと友人の伸子さんに、会の締めくくりとしてAmyが作曲した箏曲の演奏をお願いした。招待客の方々が会場を退去される時も日本の美しい音楽を弾き続けてくださるとのことだった。

ピアノとヴァイオリンの演奏、そして、お箏の調べは、集まってくださる方々の心に響き、エレノアが好きだった「音楽の会」ができると思った。

招待客を決める

誰を招待するかは、その家族次第である。長い間その地域で社会貢献をしてきた人の会では、案内状をメールでだすが出欠の返事を求めず、大きな会場で数百人が参加するような会もある。

しかし、我が家では会の後、ランチの席を設けることにしたため招待者を限定し、招待状をメールで送り出欠の返答を依頼した。

また88歳でポートランドに引っ越してきた義母は、施設内で多くの友人を作ったが、特に親しい人の数は限られていた。それでも夫と私の関係から知り合いも多くなり社交を楽しんだ。結局、義母と関わりのあった人を中心に招待し、夫と私の関係者で義母との関わりがなかった人はほとんど呼ばないことにした。

70名ほどの招待客から参加の返事をいただいた。

「会を催す」

生前の義母の写真パネルや会場で流す映像は、夫と義姉Michelleが担当した。

義姉は、数ヶ月をかけ義母が幼い頃から亡くなる直前までの写真を集め、音楽は東京に住む息子が作曲した曲を使い、本当に素晴らしいビデオを作り上げてくれた。

Michelleが作ったビデオ映像は心温まるものだった。

贈られたお花や注文した生花を飾り、受付近くには写真や義母が愛し使った品物を展示した。

会場の入り口近くに展示した義母の思い出の品々
右端の日本人の写真は、義母が初めて日本に行った時
大好きになった歌舞伎役者「11代目市川團十郎」

右端は、義母が高校時代、アーチェリーの試合で優勝し雑誌に載った写真

会の進行は夫がつとめ、まず義母の生涯を表す映像ビデオを出席者に紹介した。その後家族一人ひとりが義母との思い出を語った。次に親戚や友人たちが次々にマイクを持ち、義母との記憶に残る話をしてくれた。

母親との思い出を語る義姉Michelle

義母は再婚した相手の孫たちをとても可愛がった。彼らは、遠くワシントンD.C.とサンディエゴに住んでいたが、この会のために来てくれた。そして義母との逸話を語ってくれた。

ワシントンD.C.から来てくれたAmandaは、私も大好きな
美しく優しい女性で、義母の家の近くに住んでいたので、
一緒にオペラを観たり、買い物をしたりよく面倒を見てくれた。

私は、スピーチでは話さなかったが、長男が2歳ぐらいの頃義母が東海岸から我が家に来ていた時のことを思い出した。私は英語で子育てするほど自分の英語力に自信もなかったが、我が子には日本語でしか話さなかった。それを聞いた義母が「もし孫が日本語しか話さなくなったら、私は自分の孫と話ができないじゃないの」と言った。私は、「この子は私の子供です。私が下手な英語で話すより、自分の感情がきちんと表現できる私自身の言葉で我が子を育てます」と返した。そして、私は、必要な時以外子供達と英語で会話することはなかった。

これは、違う祖国、違う言語を持つ夫婦の「子育ての葛藤」の一つではないだろうか。

日本から来てくださった友人の純子さんは、白い着物を着て
参加してくださったので、アメリカ人の参加者の方々が
喜んでくださり、特に印象に残ったと思う。

最後のスピーチが終わったあと、日本に住んだことがあり、何度か日本を訪れた義母の送別に相応しいお琴の演奏が会場を満たした。

伸子さんとAmyの演奏は深く心に響いた。

会の後、参加者は食事の場所に移動した。ビュッフェの食事だったが、どれも結構美味しく、参加してくださった方々もテーブルごとに会話が弾み良い会の締めくくりとなった。

食事会場にて

左側には、コーヒーや紅茶、ジュース、ソーダ類の飲み物がある

このような大きなプレートに前菜、
主食のサーモン、チキン、蒸した野菜、ワイルドライス、
色々な種類のパン、デザートなどが出された。

会場を後にした私たちは、予約をしていたワイナリーへと向かった。日本やミシガン、ワシントンD.C. サンディエゴから参加してくれた親戚10人で義母の思い出を語り「Celebration of the Life ~ Eleanor Condliffe」を締め括った。

ポートランド近郊にあるワイナリー「Ambar」にて

(つづく)

田中 寿美

熊本県出身。大学卒業後日本で働いていたが、1987年アメリカ人の日本文学者・日本伝統芸能研究者と結婚し、生活の拠点をオレゴン州ポートランドに移す。夫の大学での学生狂言や歌舞伎公演に伴い、舞台衣裳を担当するようになる。現在までに1500名以上の学生たちに着物を着せてきた。2004年から教えていた日本人学校補習校を2021年春退職。趣味は主催しているコーラスの仲間と歌うこと。1男1女の母。

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