翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

海外だより

いい加減(その2)

「旅籠」のガレット、今は毎日大量に焼いている
ホテルの裏の道に厨房があり、ガレットを買うこともできる

フランスの田舎を旅するのが大好きだ。なぜかというと、景色が美しくて、食べ物がおいしいから。おまけに物価が安い。レストランにしてもホテルにしても、パリの6割くらいで、十分に満足のいくものが提供される。

生活するのは(東京生まれ東京育ちでもあり)パリがいいけれど、たまの息抜きはやっぱり田舎に限る!そして、実は、パリをちょっと離れれば、フランスは総じて“田舎”なのである。

それはTGVなど長距離列車に乗れば本当によく分かる。東京から新幹線に乗って京都に行くとすると、京都まで車窓の景色に人家がほとんど途切れないことに私は驚くが、フランスはどうだろう。パリを離れて15分もすると、そこは緑一面の野原あるいは黄色とか茶色一面の畑となって、人の家は皆無なのだ。“偉大な農業国”フランスが羨ましく、ほとんど山のない、土地の広さにもため息がでるほどだ。

白露や原を覆ひて眠らせて ちづこ

もちろん、多少の起伏とか森とか小さな川や池もあるが、牛や馬の姿を数えたりするうちに見えてくる集落は、教会の尖塔を取り囲むようにこじんまりと固まっているだけ。

パリ―リヨンという、日本で言えば、東京―京都というような大都市間も、ほとんどこんな感じであり、だからこそ、田舎の小さな村を訪ねるのも案外簡単なことではある。

話はペルージュへ戻る。

この村の歴史は、12世紀まで遡る。360度見渡せる小高い土地ということが要塞を作るのに適していたのだろう。石塀で囲った小さな“城壁都市”が作られた。

ここはリヨンとジュネーブを結ぶ線上にあったし、商業的にも発展する。周辺に広大な小麦畑を有し、パン屋も肉屋もそして葡萄酒も。麻の織物も盛んになった。

その頃は今のフランス国とは違い、群雄割拠の戦国時代、“要塞都市”も諸侯の間でいろいろあったが、結局、17世紀にフランス国王の所領となった。17世紀も終わるころ、村の人口は1000人を数え大いに栄えたらしい。


昔の織機

ところが、その後は織物産業が周辺の町に押され、ペルージュにあった多くの織機は失せ、人は町へと仕事を求めるようになり、村は急激に衰退の一途をたどる。1900年頃には要塞内の住民はわずか6名! 古い建物はそれこそお化け屋敷、廃墟寸前というところにまで陥った。

しかし、救世主が現れる。19世紀にペルージュで育った男チボー、かれは大工の棟梁であると同時に詩人でもあり歴史家でもあったのだが、晩年に「このままではペルージュが死んでしまう。どうにかしなければ」との思いを息子に託した。科学の教師だった息子がリヨンの議員たち100人を巻き込んで≪ペルージュ、古きよき街並みを保存する会≫を立ち上げたのが1910年のこと。建物を丁寧に修復し、自ら、ペルージュに住み込んで旅籠を作った。妻のマリ=ルイーズは、中世からの習慣同様に金曜日になると砂糖味の薄いパイ菓子を作り、、、と、このあたり、ペルージュの資料館や古い石壁などに刻まれた村の歴史などを読んでの受け売りにすぎないけれど。100年前からこういった「古いものへの愛着」を皆で支え、忠実に復元していくフランスの心はとても素敵だと思う。

ペルージュ資料館入口

18世紀ペルージュの名士ファベール (革命時に活躍)

ファベールが広場に植えた樹齢約250年の菩提樹;革命後の“自由の象徴”
地元?の社会科見学とおぼしき高校生が集合していた

第一次世界大戦が終わり“観光地”としても注目を浴びるようになっただろうが、またその頃から盛んになる映画の、ロケ地としても使われるようになった。フランス人の誰もが大好きな『三銃士』が1926年にここで撮影され、第二次世界大戦をはさみ、4-5本の『三銃士』が生まれているようだ。まさに“元祖村おこし”である。

21世紀になってからは、もっぱら、《最も美しい村々》の誇りを胸に(?)静かな観光スポットという位置づけなのだと思う。工芸家のアトリエが数軒、カフェが1-2軒あるくらいで、昼間の散策ではほとんど誰とも会わなかったが、ホテル(もちろん、100年前のチボーさんの旅籠)の夕食の広間は予約席がいっぱいだった。別室からは近隣の人々の会合と思われる賑やかな声が聞こえて来た。

ホテルの夕食のメインとデザート(この他にもサラダもフォアグラも、、、)
分量の多さに、日本人はびっくりするけれど、ごれが普通。

ガレットは翌朝にも饗された

出発の朝、「あなた方はどうしてフランス語できるのですか?」フロントの若い女性に聞かれた。

「以前パリに長く住んでいましたから」と答えると「で、ペルージュは初めて?」との質問が。私は何となく詫びるように、「リヨンまでは何度も来ていたのですけれど、ここは初めて。素敵な村ですね」と答えていた。

 

今年になってから、ふと、ペルージュという“音”がどうしても気になって、私は古いアルバムを繰ってみた。

あらら~~!!

1983年の夏に、ここに泊まっているではないか!!

夏休みを過ごす南仏にパリから車で下りるには10時間かかるから、たいていはどこかで一泊する。その一泊のためにその年選んだ村だったのだ。

ペルージュの趣ある小径 1983(上)と2022(下)
ちょうど逆の方向から撮影していた

中継地というだけだし、当時はおちび二人を追いかけまわす生活だったし、、、なにより、当時は≪フランスのもっとも美しい村々≫なんて組織もあったのかどうか、、、と、すっかり忘れていたことの言い訳ばかりしているが、、、40年前にここを選んだのは、きっとミシュランで“啓示”を得たからにちがいない。

「初めて」なんて、なんともいい加減な私をお許しください!

北原 千津子

東京生まれ。 大学時代より、長期休暇を利用して欧州(ことにフランス)に度々出かける。 結婚後は、商社マンの夫の転勤に伴い、通算20年余を海外に暮らした。 最初のパリ時代(1978-84)に一男一女を出産。その後も、再びパリ、そしてロンドンに滞在。 2013年、駐セネガル共和国大使を命ぜられた夫とともに、3年半をダカールで過ごし、2017年に本帰国した。現在は東京で趣味の俳句を楽しむ日々である。

Facebook Twitter LINE はてなブログ Pin it

このページの先頭に戻る