翻訳ひといきコラム

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翻訳学習

ベトナムつれづれ。(8)“Blackout!”

私の住んでいたハイフォンという街は、光と闇が激しく入れ替わる街でした。

ある夜のことです。私は台所にいて、お皿を取り出そうとしていました。すると突然、目の前が真っ暗になり、自分の手が闇に吸い込まれて見えなくなりました。慌てて窓の方向を見ると、いつもは窓にポツポツと映る街灯の光もすべて消えてしまっている。冷蔵庫のジーという音も聞こえなくなりました。

「うゎーん」

子どもの泣き叫ぶ声が響き渡りました。隣の家の幼い男の子です。つけていたテレビも消え、隣の音がいつもよりも伝わってきます。

泣き止まない男の子の気を紛らわそうと、両親が「ハッピーバースデー」を歌い始めたのが聞こえました。

ケーキの上のろうそくをフッと吹いてごらん…、ほら、灯がいっぺんに消えたよ。その時を思い出してみて。

誕生日じゃないけど、停電おめでとう、だね。

自分もそう言われたように思うと、私は暗がりの中で隣の家族とつながったような気がしました(自家発電装置がある住居だったので、電気は5分以内についた)。

コンセントが派手

停電はよく起きていました。気づかないうちに。

例えば朝、コンセントのスイッチが赤く光っています。消し忘れたのは誰だ、と腹を立てても犯人は見つかりません。寝ている間に停電が起き、復旧する時にスイッチが入ったのでした。昼間、部屋で涼んでいると生ぬるい空気が流れてきます。なぜだ、と見回すと扇風機もエアコンも動いていない。両方止まってようやく、停電の仕業らしい、と気づきます(エアコンが故障で止まることはよくあった)。いつも行くパン屋を覗くと、店内がやけに暗い。臨時休業かと思ったら、1時間後に電気がついて普通に営業していた。なぁんだ、停電だったのか。まぁ、そういうものらしい。

とはいうものの、日本から船便でベトナムに持ち込んだパソコンとプリンターだけは心配でした。停電でおかしくなったらしい、と笑い飛ばすわけにはいきません。私は日本に一時帰国した際、無停電電源装置(UPS)なるもの(ただし、安価な家庭用)をインターネットで頼み、無理やりスーツケースに詰めてベトナムに持ち帰ったのでした。

電球が好きな鳥?

「ピー」

ベトナムに戻ってからしばらくして、パソコンに繋いだUPSが作動しました。停電を知らせる音から数分間(高価な業務用UPSだと何時間にもなる)は給電され、バックアップやシャットダウンを落ち着いてできる。いや、できるはずでした。

ネットやメールの閲覧程度であったならば。

私は複数の画面を開いて作業中でした。「ピー」という音でハッと我に返り、「あと〇分」というカウントダウンが頭の中で始まるも、データ保存が先?どの画面を閉じる?電源も切らなきゃ!とあたふたしているうちにパソコンはブチッ。強制終了。

かえってパニックになってしまった。

やはり、余計な対策に凝るよりも、基本(データをこまめに保存する等)に立ち返るのが一番、と私は反省したのでした。

窓の外は大雨

それにしても、ハイフォンは天気がコロコロ変わる街でした。前の日はカンカン照りだったのに、次の日の朝8時、「夜8時ではないよね」と確かめたくなるほど外は真っ暗(街灯もついている)、雷も太鼓を叩く音のように鳴り響きます。

ただ、地元の人はなぜか動じません。どんな悪天候でも見通しがつくらしく、台風が直撃するというニュースを私が心配しても、「ハイフォンには直撃しないんだ」と彼らは自信たっぷりに言い、見事にその通りになる。春先に私が「急に冷えるね」と嘆くと、「3日もすれば大丈夫だよ」と具体的な数字で彼らは断言し、3日後にはウソのように暖かくなる。

なぜ?

いわゆる経験則というものでしょうか。

天気予報画面

それならば、停電にも経験則があるのかもしれない。そう思って観察してみると、停電は夏や季節の変わり目に集中してやってくるようでした(計画停電もあるらしいが)。テレビの天気予報で北部一帯(ハイフォンはベトナム北部)に大雨と雷のマークが点滅し、電波が乱れ、お天気キャスターの画像にビビッと線が入ると、もうすぐ嵐です、警戒せよ。

ところが、停電は嵐の日ではなく、その翌日にやってくることが多いのでした。風が吹き荒れ、電線が切れそうな時よりも、雨が上がり、太陽が顔を出してきた時にやってくる。それも、一日に一回どころか、よりによって二回も三回も。

なぜ?

誰かが私に囁きます。

終わった時こそ危ないよ。

ある日、私はお腹の調子を悪くし、病院に行きました。嵐が過ぎ去り、待合室の窓に降り注ぐ太陽の光がもうギラギラしている。嵐の次は灼熱地獄か、こりゃ、参った。そう思った時、近くの看護師が何度もせわしなく “Blackout!” と言っているのが私の耳に入りました。

 

終わった時こそ危ないよ。

あの囁き声を思い出しました。

私は身構えます。

嵐が終わった次の日、停電がやってくる。

ところが、いつまで経っても病院の蛍光灯は青白く光っています。それもそのはず、看護師は “blackout” ではなく、“blood out” と言っていたのでした(bloodがoutで血が外、血が出る、直接的な表現だ、と感心してしまったが)。黒と思ったら真っ赤な嘘、とんだ勘違い。

なぜ?

誰かが私に囁きます。

経験則と思い込みは紙一重。

停電経験則に気を取られた私は、何でも「停電」に結びつけようとしました。

大体こうなる。こうに決まっている。文脈上あり得ないのに、信じて疑わない。

それが一番危ないのです。

Watch out!

いつでも気を抜かないで。

結局、そういうことなのでしょうね。

福田 理央子

慶応義塾大学法学部卒業。同大大学院法学研究科修士課程修了。小学校時代のほとんどを米国で過ごし、英語を使う仕事に興味をもつようになる。法務分野の和訳と英訳両方のTQEに合格後、フリーランス翻訳者としての仕事をスタート。現在は、主に法務分野の翻訳(英日・日英)に携わる。「ことばのエキスパート」を目指して法務翻訳以外(街歩きガイドブック、交渉学の論文アブストラクトの英訳など)にも積極的に取り組む。密かにポリグロット(多言語話者)に憧れ、英語以外の言語も少しずつ勉強中。英検1級。

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