翻訳ひといきコラム

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翻訳学習

ベトナムつれづれ。(7)タクシー運

「それって、タクシー運がついてるんだよ」と私に言った人がいました。

タクシーに乗ると思わぬ展開になることが多い、と私が嘆いた時のことです。健康運や仕事運ならばいざ知らず、「タクシー運」など聞いたこともありません。けれども、そんな運があっても不思議ではないほど、私は港町ハイフォンに住んでいた時、タクシーをよく利用していました。

思わぬ展開は、行き先を伝える段階から始まります。運転手に「○○通りの△△」(ベトナム語の地名)が通じなければ、容赦なく「はぁ?」と聞き返され、その後の展開は状況次第です。そもそも母音、子音、声調の組み合わせが無限のように思われるベトナム語(母音だけでも11種類ある)において、変なイントネーションの「箸に行きたい」を「橋」と推測してもらうようなことは期待できません(スマホの画面を見せるのが一番確実だが、毎回うまくいくわけではない)。

そういうわけで、ある日、私が「○○通りの博物館」と行き先を伝え、運転手が大きく頷いて出発した時には、「通じた!」と心の中でガッツポーズをしました。しかも、「博物館」という単語を何度も鼻歌のように口ずさみながら、目的地の方向に向かっています。間違いありません。10分ほどすると、前方に博物館が見えてきました。やれやれ。

と思った矢先、運転手が私の耳の近くに自分の携帯電話を差し出しました。博物館にまさに到着する、その時です。電話越しに男性の声が聞こえました。

“Where do you want to go?”

どこに行くかって?

降りる準備をしていた私は、呆気に取られました。

「博物館」が最初から通じていなかったのです。運転手は、単に「はぁ?」と聞き返さなかっただけで、とりあえず出発し(「○○通り」は通じていた)、私の発音を何度も真似することで行き先を解明しようとした(箸?端?のように)。でも余計に分からなくなり、とうとう英語を話せる同僚に電話したのでした。やれやれ、助かった。

と思いきや、今度は英単語museumが電話の相手に通じません(今思えば、Englishesのせいかもしれない。Englishesについては、ベトナムつれづれ。(4) を参照ください)。タクシーは博物館からどんどん遠のいていきます。道路の分岐点に差しかかったところで、私はタクシーを降りました。

降りた場所の近く

そこは案外、見晴らしのよい場所でした。

街路樹のヤシの木が一本一本くっきりと見えました。強い陽射しのせいで銀色に光ったヤシの木が、クリーム色のコロニアル建築が並ぶ通りの中で際立ちます。

南国リゾートとヨーロッパが混じったような、不思議な光景。

ゆっくり散策して、それから博物館に戻ることにしよう。私はそう思いました。

ハイフォン博物館

港町ハイフォンのタクシーは道路でよく目立ちました。緑、白、黄色、赤、ピンクなど、会社ごとに車体の色が分かれていて、私はよくピンク色のタクシーに乗っていました(運転手の制服も車とお揃いのピンク色)。

ピンク色のタクシー

その日も、私はピンク色のタクシーに乗りました。運転席を見ると、女性の運転手です。ロングヘアーを後ろで束ねていて、白いパールのイヤリングが目立つオシャレな人。「どこに行くの?」と振り返ったときの笑顔が眩しい。たった5分で着いてしまうスーパーが行き先であるのを忘れそうになりました。

あとは次の信号を超えるだけ、という段階で、突然、彼女は私の方に振り返りました。

「あっち見て」と自分の視線を右側に向けます。

私は戸惑い、視線を泳がせました。

彼女は右側の一点を指さします。

無視するのは失礼だな。私は観念しました。

いや、わかっていたのです。右を向いたら、それとご対面してしまうことを。

1メートルを超える大きさの真っ白いヤギが、その頭が、その足が、バイクの後ろの荷台から突き出ていました。丸ごとゴロンとバイクの荷台に横たわったまま、眠たそうな目をこちらに向けて、タクシーの横をすり抜けていきました。荷台から大きくはみ出たヤギは、バイクの振動で、ぼわゎん、ぼわゎんと上下に揺れています。バイクはお構いなしにスピードを上げ、ヤギは荷台の端っこにどんどん追いやられていきます。

気づいてるの? ヤギがずり落ちるよ。気づいてよ! 落ちるってば!

私はそう叫びたくなり、笑いました。女性運転手も肩を揺らして大笑い。耳の白いパールが肩の揺れとともにキラキラ光り、反射した光が、幻影のように荷台の上で弾んでいる白いヤギと重なりました。スーパーに行く道が、「白いヤギと揺れるパール」という奇妙なアート空間にすり替わった瞬間でした。

何でも運びます

思わぬ展開も悪くはないかもしれない。笑いをこらえながら、私は思いました。

予定どおりに進むのは気持ちよいかもしれません。でも、思わぬ展開に遭遇すると、見知らぬ光景に出合うことになる。意外な発見がある。

思わぬ展開は、それからも起きました。そのたびに、タクシーはあるものを私に運んでくれました。

笑いの種です。それも、知らないうちに植えつけられている種。

今でも思い出すと笑い転げ、愉快になります。笑いの種はいつでも、どこでも、何度でも芽を出し、幸せな気持ちを運んでくれる。

「タクシー運がついている」とはそういう意味だったのか、と今になって思うのです。

福田 理央子

慶応義塾大学法学部卒業。同大大学院法学研究科修士課程修了。小学校時代のほとんどを米国で過ごし、英語を使う仕事に興味をもつようになる。法務分野の和訳と英訳両方のTQEに合格後、フリーランス翻訳者としての仕事をスタート。現在は、主に法務分野の翻訳(英日・日英)に携わる。「ことばのエキスパート」を目指して法務翻訳以外(街歩きガイドブック、交渉学の論文アブストラクトの英訳など)にも積極的に取り組む。密かにポリグロット(多言語話者)に憧れ、英語以外の言語も少しずつ勉強中。英検1級。

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