翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

翻訳学習

翻訳語り(3)調べもののすゝめ

たとえば翻訳の学校などにおいて、生徒が課題で提出する訳文のホメられポイントとして、言及されやすさの筆頭に来るのは「正確に訳されている」と「文章がわかりやすく/読みやすく書かれている」だろう。

これは当然といえば当然であり、学校の課題ではなく、仕事においてもそれらが大切なのは間違いないのだが、わたしが翻訳の仕事を始めたころ、翻訳者に何を望むかという文脈で、複数の編集者から熱の籠もった調子で言われて印象に残っている言葉がある。それは「調べものをきっちりやってくれる翻訳者はありがたい」だ。

調べものいろいろ

ひと言で「調べもの」といっても、わりといろんな種類があり、おおざっぱにまとめるとこんな感じになるだろう。

1:単語や熟語の意味
2:名称の日本語表記
3:内容の正確性
4:足りない情報の補足
5:作品内のつじつま

具体例を挙げながら説明してみたい。

まず1つ目の、単語や熟語の意味。以前、とあるウェブ記事の翻訳で「Fat Tuesday」というのが出てきた。これはキリスト教における四旬節前の火曜日のことだ。これに対する訳語を調べると、ネット検索では「肥沃な火曜日」としているものがかなり多く見られる。直訳ではあるが、これでは実際のところ何を意味しているのかよくわからない。そこで「Fat Tuesday」の由来を調べてみると、「肉食が禁じられる四旬節に入る前に、脂っぽいものやごちそうをたらふく食べておく日」であることがわかる。つまり、「Fat Tuesday」のより正確な訳語は「脂の火曜日」ということになる。

単語や熟語については、辞書を引くだけでたいていは事が済むのだが、ときにはこんなふうにちょっと突っ込んで調べたほうがよいものもある。

そして2つ目は、いろいろな名称の日本語表記だ。たとえば人名の場合、John Smith=ジョン・スミスのような簡単なものであれば調べるまでもないが、Joaquinとなるとちょっと迷いが出てくる。ホアキンかもしれないし、ジョアキンかもしれない。また、以前わたしが訳した『犬たちを救え!』(作品社)という本にはLisaという女性が出てきた。よくある名前で綴りも単純だが、実際の読みがリサなのかリザなのかわからず、著者に直接尋ねる必要があった。

英語圏出身でない人たち、たとえばロシア人の名前のスペルが英語アルファベットで書かれている場合、元のキリル文字に直してからその発音を探らなければならないこともある。さらには、中国系のLiなどという名前が出てくると、漢字は「李」なのか「黎」なのか、それとも漢字表記は存在しないのか、判断材料を探し回ることになる。

このほか、植物や動物の名称、雑誌名、書籍名、ブランド名、商品名など、日本語表記に苦労させられるものはたくさんある。これは単純なようでいて、実はものすごく時間を取られる、しかもわかったところでさほど”アハ感”のない作業であるため、正直に言ってしまうと、わたしの中では翻訳にまつわるさまざまな作業の中で、憂鬱度合いにおいてトップ争いをするくらいの上位にランクインしている。

「調べもの」の3つ目は、書いてある内容に間違いがないかどうかだ。最近訳した『女たちのレボリューション』(作品社)という本ではこんな例があった。

原文「Armand and Kollontai both participated in the Congress.」
訳文「アルマンドとコロンタイは、どちらもこの会議に出席した。」

この本は史実に基づいたノンフィクションであるので、こういう文が出てきた場合には、この「会議」に「アルマンドとコロンタイ」がほんとうに「出席した」のかどうかを、いちおう別の資料で調べてみる。まず日本語の資料にいくつかあたったところ、そのうち2点に「コロンタイはこの会議には出席していない」と書かれていた。さっそく原文との矛盾が出てきてヒヤリとする。そこで、これを解決するためにまた別の資料にあたる。するととある英語の資料のおかげで、「コロンタイは会議に出席したものの、逮捕の危険を感じて途中で逃げ出した」という事情であったことが判明。先の日本語の資料では、そこまで細かい背景を考慮に入れていなかったか、あえて省いたのだろうと推察される。

このように、時間と手間はかかっても正解に近いと思われる回答が見つかったときには、ちょっとした謎解きをやり遂げたような達成感がある。こうして矛盾の理由は解明され、無事訳文は仕上げられた。ただし、ここで挙げた例もそうなのだが、調べものの成果が目に見える形で訳文に反映されるとは限らない。調べる前も調べた後も、訳文は一字一句変わらないということも多々あるからだ。それでも、ここまで調べておけば内容に間違いはないと自信をもって本にすることができる。

「調べもの」の4つ目として、足りない情報を調べるというものもある。これも『女たちのレボリューション』から例をひとつ挙げる。

原文「In September 1906, Kollontai travelled to Finland where she met up with Lenin and Krupskaya and with Rosa Luxemburg, who was writing her famous account of the mass strike movement. 」
訳文「一九〇六年九月、コロンタイはフィンランドへ行き、そこでレーニンとクルプスカヤ、そしてかの有名な大衆ストライキ運動の記録[『大衆ストライキ・党および労働組合』のことを指すと思われる]を執筆中のローザ・ルクセンブルクと顔を合わせた。」

原文には、ローザ・ルクセンブルクの書いた「かの有名な大衆ストライキ運動の記録」とだけある。おそらく著者にとって、このときローザ・ルクセンブルクが具体的に何を書いていたのかは常識だと感じられたのだろうが、日本の読者の大半は「かの有名な? どの?」となってしまうだろう。そのため、ここは上記の通りカッコで訳注を入れる処理をした。このように、読み手が頭上に「?」を掲げることなく、すんなりと読み進めることができるよう、原文にはない情報を訳文に追加した方がよい場合もある。

最後、5つ目として挙げておきたいのは、作品内の情報のつじつまが合っているかを調べる、というものだ。一冊の本にできるくらいの長さの文章を書くと、その中で起こる出来事の前後関係などにつじつまが合っていない部分があることに、著者本人でさえ気づかない場合がある。そんな矛盾点にぶつかったときには、何が正しい情報かを調べたうえで、編集者に相談のうえ適切な対応(訳注を入れる、著者に問い合わせるなど)を決定することになる。

調べものと矛盾

翻訳作業とは、ざっくり言うと、まず原文を読む、わからないことがあれば調べものをする、そして原文の内容を日本語に直して書く、という三つの段階をひたすら繰り返すことから成り立っている。そして「調べもの」には、これら三つの中でも断トツに多くの時間と手間を要求される。

どんな内容の作品かにもよるが、たとえば一冊の本を1000時間かけて訳したとして、そのうち900時間は調べものに費やされるといっても過言ではない。朝、今日は5ページは訳せそうだなと思っても、たったひとつ調べものをする必要がある文が出てきたせいで、日が暮れても5行も進んでいないということはわりとよくある。そのくらい、調べものというのは時間泥棒なのだ。

翻訳者というのはしかし、その作品を相当に細かく、ことによると原書の出版にかかわった編集者よりも隅々まで読み込むことになる存在だ。一冊の本を翻訳して、頭から終わりまで間違いがひとつもなかったという原書にはほとんど出遭ったことがなく、それはつまり著者、編集者、さらには校閲の目まですり抜けた間違いに、翻訳者だけは気づくということが少なからず起こっていることを示しているのではないだろうか。

原文に矛盾点を見つけたときには正直、やっかいだなという思いも生じる。その一方で気づけてよかったと安心もする。翻訳者の心理も矛盾に満ちている。どちらの矛盾も解決するには、やはりコツコツ調べものに励むしかない。

北村京子

ロンドン留学後、会社員を経て翻訳者に。訳書にP・ファージング『犬たちを救え!』、A・ナゴルスキ『ヒトラーランド』、D・ストラティガコス『ヒトラーの家』、M・ブルサード『AIには何ができないか』、J・E・ユージンスキ『陰謀論入門』(以上、作品社)、『ビジュアル科学大事典 新装版』( 日経ナショナル ジオグラフィック社、共訳)など。

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