翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

翻訳学習

物語によりそって

翻訳家の原田勝さんに翻訳チェックの仕事のお話をいただいたとき、いったい自分に何ができるのだろうかと思いめぐらせました。チェック事項や表記などの細かい指示のほか、訳文について気づいたことを何でも伝えるようにと書いてくださっていたので、自分なりに調べた上で、私の感じた“CHANCE”の世界と訳文のあいだにニュアンスの違いを見つける作業に重点をおくことにしました。ずいぶん不躾なコメントもあったに違いありませんが、原田さんはいつも真剣に受け止めてくださいました。とはいえ、いただいた訳文はとても美しく、震えるほど胸を打たれることもありました。

『チャンス はてしない戦争をのがれて』は、ポーランド出身のユダヤ人でアメリカ在住の絵本作家、ユリ(ウリ)・シュルヴィッツによって児童向けに書かれた自叙伝です。ドイツのポーランド侵攻により、故郷のワルシャワを離れ、シュルヴィッツ一家は旧ソ連領の各地を転々とすることになります。いくつもの偶然(チャンス)が重なって旧ソ連の奥地にいたからこそ、飢えや貧しさ、病に苦しみながらもウリと両親は生きのびることができました。でも、祖父母をはじめとする親類のほとんどがホロコーストにより命を落とします。戦争が終わり、ワルシャワに戻っても、そこは彼らにとって安住の地ではありませんでした。ドイツ、そしてフランスのパリに移り住みますが、そこでもウリは差別やいじめにあい、居心地の悪い思いにさいなまれます。そのなかで、ウリはいつも絵を描き、物語に安らぎや楽しみを見出しました。どんなにつらく悲しくともユーモアを忘れず、ときに皮肉もまじえながら、子どもたちの世界や、ウリのまわりの大人たちのエピソードが淡々と描かれます。

また、紀行文さながらにさまざまな文化や風物が描写されているのも本書の大きな魅力です。舞台がいくつもの国や地域にわたるため、下準備は簡単ではありませんでしたが、それもまた楽しい時間でした。ウリ少年が愛読したという『ティル・ウーレンシュピーゲル』や『オズの魔法使い』、『モンテ・クリスト伯』、『三銃士』、自作漫画の原作『ボタン戦争』などに目を通すこともありました。東欧や旧ソ連では誰もが知っているというゲームや語呂合わせの歌などを調べながら、ウリたちが無邪気に遊ぶ様子に安堵したりもしました。こうして、頭の片隅ではいつもウリ少年のことを考えていたような気がします。

ただ、楽しいことばかりではなく予想外の出来事もありました。本書の舞台の一つであるロシアが戦争を始めたことです。戦争による殺伐とした空気や緊迫感などは想像で補うには限界があり、報道映像からは多くのことを教えられました。でも、いくら背景や心情を理解したいと思っていても、このようなかたちで実感したくはありません。あるとき、ニュースを見ていると、ウクライナのリヴィウに鉄道で避難する幼い少年の姿がありました。77年前、同じようにリヴィウ(当時はポーランド領ルヴフ)に向かっていたウリ少年の面影と重なります。今、ウクライナにはたくさんのウリ少年がいます。そして、彼の両親がそうであったように、母親たちは子どもが少しでも楽しい未来を描けるように物語を聴かせ、父親たちは家族を守ろうとしているでしょう。ウリ少年に絵と物語があったように、すべての子どもたちに心の支えがあってほしいと願わずにはいられません。

シュルヴィッツの絵本を読むたびに、そこに描かれた子どもたちは楽しそうに笑っていても、どこか淋しげだと感じていましたが、それは幼い頃の戦争体験や、少年時代に乗り越えなくてはならなかった深い孤独と無関係ではないでしょう。ウリ少年の透明なまなざしに映った心の風景は細部にいたるまで鮮明でした。だからこそ、彼の言葉や絵は人の心の深いところで響くのだと思います。本書の最後にはシュルヴィッツのお母さんの写真が掲載され、次のような言葉で締めくくられています。「何年も、あちこち旅をしたが、今はもう、自分の本の中で旅をするだけだ。」

最終チェックの確認を終えて、あとは入稿を待つのみというとき、すべきことがもっとあったのではないかという後悔とともに、一抹の淋しさを覚えました。約一年にわたって、チェッカーとして本書に関わり、文章が研ぎすまされていく過程を見守らせていただけたことは大きな喜びでした。

 

*本書の原作者名は、日本でこれまで出版されてきた作品に合わせ、「ユリ・シュルヴィッツ」としていますが、作者本人による発音や、命名にまつわる逸話をふまえ、作品の中では「ウリ」と表記しました。(『チャンス はてしない戦争をのがれて』の説明文より引用)

藤田優里子

英日・韓日翻訳。大学卒業後、フランス、ドイツ、韓国への遊学を経て、翻訳に携わる。出版翻訳歴20年。訳書に『幸せのねむる川』 (青春出版社)、『ガンに勝つ極意』(サンマーク出版)、『時の終わりへ メシアン・カルテットの物語』(アルファベータ)、『ルーン文字 古代ヨーロッパの魔術文字』、『黄金比 自然と芸術にひそむもっとも不思議な数の話』、『リトル・ピープル ピクシー、ブラウニー、精霊たちとその他の妖精』(ともに、創元社)、共訳に『ゴルゴンの眼光』(静山社)など。 「洋書の森」(https://youshonomori.wixsite.com/salon)ボランティアスタッフ、児童文学同人「牛の会」会員、「JBBY」会員。

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