翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

海外だより

クリスマス(その2)

「イブの午後になったら全部しまっちゃうから、今のうちにクリスマス市に行ってくるといいわ」

ハノーバーの2日目。24日の朝にいとこのFちゃんが言ったので、私たちは電車で小一時間の中世の面影を残す美しい村、ゴスラーに出かけることにした。

ゴスラー。中世から栄えた地域。鉱山の山のふもとの村。
古い木組みの建物や、壁面の木彫などが美しい。

パリは“世界一の観光地”だから、クリスマスも多少は賑わいがあるが、西欧のキリスト教国は概ね12月25日は休日であり、静まり返って何も動かない。ひどい所は、交通機関さえ休みとなってしまうのだ。前日のハノーバーの街の静けさも、すでにクリスマスモードに入ったということのようだった。

今にも雪がちらつきそうな曇り空だったが、彼女が何も心配しないところをみると、このあたりの12月はいつもこんな風なのかもしれない。電車のダイヤが少し乱れているようではあったが、それも、もしかしたら、いつものことなのかもしれない。

さすがにクリスマス市で有名なドイツのことだけある。パリの市は(ハノーバー市内もそうだったけれど)、太い通りに屋台のような店舗が並ぶだけで、その時季の特別の“アトラクション”という感じを免れないが、村全体が市をなすゴスラーは店舗の数も多く、やはりとても楽しかった。

私たちのお目当ては、“本物のザワークラウト”だったが、大甕の中から2キロばかり包んでもらう時に、「パリまで持ち帰るから、何重にも包んでね」と注文することを忘れなかった。なにしろ、このドイツの古漬けの匂いときたら!

蜜蠟やクリスマスリースを売る店

昼過ぎにいとこの家に戻ると、とてもにぎやかになっていた。ドイツではとにかくこの日は家族が必ず集まらなければならないのだそうだ。「もう義務みたいなもの」とFちゃんは言っていた。だから家を離れて暮らしている子供たちが戻っていたのは当たり前としても、Fちゃんの妹たち(彼女たちだって「いとこ」だが)がドイツの田舎とイタリアの田舎から到着し、さらにサンフランシスコから叔母も着いていた。夜には、叔母の息子(これも「いとこ」!)もやって来るのだが、それこそ、数日前から欧州に来ていたらしい彼の、ハノーバー到着予定時間がころころ変わるので、私たちは、「Eちゃん(叔母の名前)の不良息子、一体どこをほっつき歩いているのやら!?」と賑やかに噂した。

午後は、みんなでクリスマスツリーの飾りつけとその夜の“聖餐”の準備。ドイツでは、ツリーはイブになって飾るという習慣であること、生の樅の木を使うこと――これはフランスも同じ――しかも、そこに本当の蝋燭を飾り本当の灯をともすことも教わった。

いとこの家のクリスマスツリー

今は大人ばっかりだからいいけれど、子供がいたらちょっと怖いな、、、と思いつつ、そういう場合はどうするのか聞きそびれたが、どうやらいとこの家ではずっと昔からそうやっていたみたい。あわてんぼうがセーターの袖など焦がすんじゃないか??!!

ツリーの飾りつけが終わったらプレゼントを置く。これだってそれぞれがそれぞれに、だから大変な数になるのだけれど、それゆえに高価なものではなく、小さなものをその場でラッピングしたりする。私たちの、例の汚されてしまったプレゼントもどうにか体裁を整えた。

蜜蠟のとけて聖餐始まりぬ ちづこ

総勢10名が揃い、いよいよ聖餐。

ところが、「待って、まず歌よ」とFちゃんは言い、下の妹のSちゃんが慣れた様子でピアノの前に座った。

いとこ夫妻や彼らの妹たちは全員クラシックの音楽家だから、、、なのか、単にドイツの習慣なのか分からないけれど、私たちは20歳代から70歳代の大の大人だけれど、大真面目にクリスマスキャロルを数曲歌った。

(その後、数年してスウェーデンのクリスマスに呼ばれたことがあったが、その時は聖餐の途中途中で歌わされた!)

いよいよ食事。

ちょっと記憶があいまいだが、もしかしたらこの食事の前にお菓子が配られたかもしれない。それは、大きな紙皿に乗せられた、クッキーやら飴玉やら得体のしれない!?ドイツのいわゆる“駄菓子”の盛り合わせ。

結構な量があり、しかも、私たちは子供じゃない!と思ったが、これもまた習慣だそうだ。この大量のお菓子は銘々に配られ、翌日まで自分の紙皿をしっかりキープして食べるように、と仰せつかった。

日本人、ドイツ人、アメリカ人のごちゃまぜ家族が集まっての食事会だから、完璧なドイツ式クリスマスディナーではなかったのかもしれないが、もともと食べることに目のない私たち、どれもこれもとてもおいしくいただき、また久々に会ういとこたちや叔母との素晴らしい一晩となった。

叔母がしきりと「私は末っ子だから、今でもこうしてみんなと会えてうれしいわ」と言っていた。いとこや夫の母である姉二人のこと、その周辺の人々のことを叔母は懐かしみ、誰もが相槌を打ち、亡き人々を忍びつつ、家族の話は尽きることがなかった。

この時の10名が一堂に会することは後にも先にもなく――もちろん、個別には、どこかで誰かと会ってはいるが――数年前にE叔母はサンフランシスコで96年の生涯を閉じた。

ハノーバーのいとこの家は、その後結婚して5人家族となった娘一家の家となり、80歳代となったいとこ夫妻と息子家族も集まって、今年も賑やかなクリスマスを迎えているはずだ。キリスト教国の人々にとってクリスマスはいつも「家族の日」である。

約100年前のシアトル時代の、夫の祖父母家族。中央の一番おちびさんが、E叔母。
ちなみにいとこF、Y、Sの母親が長女、夫の母は次女でした。

北原 千津子

東京生まれ。 大学時代より、長期休暇を利用して欧州(ことにフランス)に度々出かける。 結婚後は、商社マンの夫の転勤に伴い、通算20年余を海外に暮らした。 最初のパリ時代(1978-84)に一男一女を出産。その後も、再びパリ、そしてロンドンに滞在。 2013年、駐セネガル共和国大使を命ぜられた夫とともに、3年半をダカールで過ごし、2017年に本帰国した。現在は東京で趣味の俳句を楽しむ日々である。

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