海外だより
2022.12.13
オーストラリアで起業する(2)
前回のエッセイで書いた元同僚のSが示唆した通り、不動産会社の収入源は、賃貸管理収入と売買手数料の二つである。私もDもそれまで販売担当で、賃貸管理の経験が無かったため、私達の会社では「不動産売買」のみを行い「賃貸管理」はやらないと決めた。オフィスを借りるお金が無くて自宅をオフィスにしたのだが、不特定多数の人達が常に出入りする「賃貸管理」業務を自宅で行うには市役所の許可が下りないという理由もあった。
日本とは異なり、オーストラリアの不動産売買では、売買手数料は売主からのみ頂く。日本で不動産営業をやっている方にその話をすると、「買主からは手数料無しですか?よくやっていけますね」と驚かれる。一生のうちに一人平均8回は引っ越しをするというオーストラリアでは、不動産売買の頻度が日本よりも多いため、買主からの手数料なしでも不動産業が成り立つのかもしれない。
というわけで「不動産売買」のみを行う事にした私達が収入を上げるには、不動産の売主を探してこなければならない。営業マン経験2年半のDには前の不動産会社時代に培ったツテが多少は有ったものの、「自分を育ててくれた会社からはお客さんを横取りしない」というオージーにしては珍しい忠誠心を掲げていたため、「起業して最初の1、2年は不動産販売だけでは食べていけないだろう」と覚悟していた。Dがメインで不動産販売をし、私は事務作業をしつつ翻訳の内職をするつもりでいた。会社設立の2カ月前に帰国して、サン・フレアさんでTrados研修に参加させて頂いた。約10万円のTrados購入費用は痛かったが、その後の生活を支えてくれるはずと涙をのんだ。
リノベーションが終わった自宅2階のリビングをオフィスにして開業。
ところがである。会社を開設してすぐに「ケアンズに所有している別荘を売却してほしい」と日本人のお客様からの案件が別々に6件も飛びこんできた。前の不動産会社時代から、ケアンズで不動産を持っている日本人の方宛てに「日本語不動産ニュースレター」を毎月メールで送っていたのだが、4組はそのニュースレターを読んでくださっていた方達だった。私は売主である日本人のお客様とのコミュニケーションを、Dは買主であるオーストラリア人との交渉を担当し、6件全て短期間に成約した。地元の売主からDに家を売って欲しいという案件も1件入り、起業して4カ月後の8月にはかなりの額の成約手数料が入ってきた。「こんなに収入があったら税金に持っていかれるだけだから、経費を増やすために新車を買おう」というDの提案がもっともに思えた当時の私の無知さ加減は、今から思うと我ながら「なんて純粋だったの?」と感動さえする。
中古のトヨタカムリから、新車の日産マキシマに乗り換えたDは「これで高額物件のお客様に会いに行くのも恥ずかしくない」と意気揚々だったが、9月には高額物件のお客様はおろか、小さな物件のお客様を訪ねる機会も無かった。そして10月も売り物件の獲得は出来ず、売り上げゼロだった。スタートが良かったから1、2カ月のスランプが有っても仕方がないと思っていたが、11月も12月も状況は変わらず、電話も鳴らなければメールも来ず、オフィスを訪ねてくる人もいなかった。リビングルームの片隅に設置したオフィスで毎朝8時半に机に向かうものの、そんなにやることもない。私はニュースレターを書いたりブログやフェイスブックの投稿を繰り返していたが、Dは「じっとしているのは我慢できない」と自宅のリノベーションをしたりしていた。ビギナーズラックで得た成約手数料から毎週自分達にお給料を払っていたが、それも翌年の3月には尽きてしまう。お給料が払えなければ自宅の住宅ローンも払えない。Dは「アルバイトを探す。高校中退の自分の履歴書は見栄えがしないので、DJスミス・プロパティ社長の肩書で応募したい」と言う。「何言ってるの?社長がアルバイトしているなんて世間に知られたら、誰も家を売らせてなんてくれないよ!」私は激怒した。「こんな状態は地獄だ。もう会社なんて辞める!」と言うDに、「あんたが起業しようって言ったんじゃない!私の生活もめちゃくちゃにして、責任取ってよ!」と怒鳴った。「石の上にも三年」「一度始めた事は最後までやり通す」ことを美徳として育った日本人の私には「起業して数か月で会社を閉める」という選択肢は無く、「うまくいかなければさっさと見切りをつけて、次の事を始める」ことを良しとして育ったオージーのDに、自分の価値観を押し付けた。「来年の3月までは続けよう。それで駄目だったら諦めるから」。Dの希望で始めた会社だったが、執着したのは私のほうだった。「金運が良くなるCD」を買って繰り返し聞いたり、翻訳の内職をしたりして、何かが変わることをひたすら待っていた。
2011年当時、住宅販売で最も効果がある媒体は地元の新聞広告だった。
今見ると恥ずかしい手作り感満載の広告。
そんな中、更なる試練が舞い込んできた。私達からマンションを買ってくださった日本人ご夫婦から「マンションの頭上をすごい轟音で飛行機が飛び、飛行機が落ちるのではと心配で気が休まらない!」というのである。ケアンズ空港に着陸する飛行機は、通常空港の北から下降するのだが、風向きによって稀に南から下降する事があり、その場合は購入されたマンションが航路の下に位置するという事を私達は知らなかった。何度か内覧に行った際には、飛行機なんて全く見えなかったため、こんな問題が起こるとは予想もしていなかった。南から飛行機が下降するのは年に合計数週間程度で、マンションの他の住民は「慣れれば気にならないよ」とのことだったが、お客様はケアンズには年に数回、数週間づつしか滞在されないため、「慣れる」前には日本へ帰ってしまう。「リラックスするためにケアンズに来たのに、飛行機の騒音に悩まされるのは我慢できない!」というのはもっともな話だった。Dと一緒に謝りに伺ったが、お客様の逆鱗は収まらなかった。前に働いていた不動産会社の社長や業界団体に対応を相談したが「お客さんが内覧して自分の判断で購入したのだから、君達に落ち度は無い。無視すればいいんだ」と誰もが口をそろえて言った。しかし私達は無視することなんて出来ず、オーストラリアの航空局に電話して航路を変更することはできないかと陳情してみたり、騒音の苦情を申し立てたり、年間の風向きのグラフを作ってお客様に提出したりと、当時の私達が考えうる全ての事をやった。3週間後、お客様が帰国される前には少し怒りも収まっていたが、問題が解決したわけではなかった。「どうして会社なんて始めてしまったんだろう。始めなければこんな思いもしなくて済んだのに」自分達の浅はかな行動を深く後悔した。
翌年の1月も、そして2月も全く案件が取れず、問い合わせも無く、収入ゼロを6カ月間更新した。そして3月、「会社を閉める手順」について調べていたある日、入り口でノックの音がした。訪ねてくる人なんていないはずだし「宗教の勧誘だろう」と無視していた。すると「すみません」と日本語で声がする。ドアを開けてみると、日本人の若い男性が二人立っていた。「東京から来たんですが、家を売ってもらえませんか?」男性の後ろには、庭で大工仕事をしていたDが口をぽかんと開けて突っ立っていた。(次号に続く)
熊谷 美保
福岡県出身。2003年通訳・翻訳の勉強にオーストラリアのメルボルンへ。 2007年、ケアンズへと移り地元の不動産会社に就職。その後、当時のパートナーと不動産会社DJスミスプロパティを設立し、2017年に単独オーナーとなる。 ケアンズで不動産仲介、賃貸管理業務を行い、日本人のお客様にもご愛顧頂いている。 今は翻訳の仕事から離れているが、いつの日かオーストラリア人作家の作品を日本に紹介するのが夢。