翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

海外だより

オーストラリアで仕事を探す

前回のエッセイでは、ワーキングホリデービザでオーストラリアにやってくる若者達について書いたが、彼らの中には仕事探しに苦労している人が少なくない、という話をよく耳にする。私がオーストラリアで最初に仕事を探したのは22年前。当時と今とでは状況も全く異なるだろうが、「日本人がオーストラリアで仕事を探す」という点では、共通する事が有るかもしれない。今回は私の仕事探しの経験をご紹介したいと思う。

2003年9月、私は通訳・翻訳を学ぶために学生ビザを取得してメルボルンへやってきた。学費を払った後に残った貯金では滞在期間の生活費を全額まかなう事は出来ないとわかっていたので、早急に仕事を見つけたいと思っていた。到着してすぐホームステイした家のリビングルームに有った地元の新聞に、日本の旅館を模した宿泊施設の広告を見つけた。庭から撮った障子越しに室内の明かりが見えるその写真広告は、とても美しかった。求人広告ではなかったが「日本繋がりで、もしかしたら何か仕事が有るかもしれない」と、恐る恐る電話をかけてみた。電話に出たオーナーはオーストラリア人女性で、日本の建築に魅せられて旅館風の施設を建てたが、日本へ行ったことも無ければ日本人の知り合いもいないという。「GEISHA(芸者)になれる?」と突然聞かれ、「芸者にはなれないけど、着物を着て茶道をすることはできる」とたどたどしく答えると、「ぜひ会いたい」と言われた。教えられた通りに市内から電車に乗り、1時間半かけてやっとたどり着いた所には、雑木林の間に和室に縁側とお風呂がついた宿泊施設が2つポツンと建っていた。日本人の私から見ると「え?」と思う点も有ったが、「日本へ行かずに日本を体験できる」と、オーストラリア人の宿泊客には人気のようだった。ここで更に日本色を出すために、宿泊者の前で着物を着てお茶を点てて欲しい、それから食事のお給仕もして欲しい、とオーナーに頼まれ、毎週土曜日に通うことが決まった。日本で熱心に茶道のお稽古に通っていた私は、茶道のデモンストレーションをしてお金を頂くというのは茶道の精神に反するようで気が引けたが、背に腹は変えられなかった。メルボルンで暮らした約3年半、ほぼ毎週、茶道のデモンストレーション及びお給仕に通った。オーナーは私を妹のように可愛がってくれ、精神的にも随分と助けてくれた。この広告を見つけたのがメルボルンに着いてもう少し時間が経ち、その場所が市内から片道1時間半も離れているとわかっていれば、問い合わせることも無かっただろう。無知だったが故に手に入れた仕事だった。

茶道のデモンストレーションとお給仕をしていたホテルが地元の新聞から取材を受けた際の新聞記事。
茶道は珍しかったようで、テレビの旅番組でも一度放映された。

この仕事だけでは収入が足りなかったので、市内の和食レストランのウエイトレスの求人にも応募した。面接の数日後、学校の先生から「XXXに面接に行ったんでしょ?あそこのマネージャーが私のお友達で、あなたの事とっても気に入ってたわよ」と言って貰い、採用間違いなし!と喜んだ。ところが何日経ってもレストランからは連絡が来なかった。痺れを切らした私はレストランに電話をしてみた。面接で会ったマネージャーが「実はねぇ、もう一人の若いマネージャーが、あなたの年齢について心配しているの。他のスタッフよりずっと年上だから他の人達がやりにくいんじゃないかって。それに、あなたの年齢でウエイトレスの仕事はきついんじゃないかって渋っているのよ」と申し訳無さそうに言った。当時私は37歳で、他のウエイトレスより一回り年上だったが、ジャパレス(日本食レストラン)のウエイトレスなんて日本人なら誰でもなれる、くらいにしか思っていなかったので(今となっては何と高飛車だったのかと恥ずかしくなるが)、マネージャーのコメントはショックだった。地元のカフェ等にも履歴書を持って行ってはいたが、経験の無い私に対して反応は良くなかったので、どうしてもこの和食レストランでの仕事を獲得したかった。「体力には自信が有ります。若いスタッフさん達ともうまくやっていきますので、ぜひ雇ってください」と懇願した。何とか採用して貰ったものの、最初はあまりシフトを入れて貰えず、ウエイトレス未経験の私はなかなか仕事を覚えることが出来なかった。私は他のスタッフの足手まといとなって皆をイライラさせ、自分自身にも失望し、仕事に行くのが苦痛だった。学校の勉強も大変だったし、ハウスメイトともうまくいっていなかったあの頃の私は、レストランでも暗い顔をしていて、スタッフにとっても疎ましい存在だったのだと思う。

ところがある日、更衣室で一緒になった先輩ウエイトレスから、自分に割り当てられたシフトを少し変わって欲しい、と頼まれた。就職活動のためにレストランでの仕事を減らしたいとのことだった。私は二つ返事で引き受けた。シフトを組むのは私の採用を渋ったマネージャーの仕事だったので、彼女の許可なくベテランウエイトレスのシフトを仕事が出来ない私が引き受けた事にちょっと嫌な顔をされたが、私は気が付かないふりをした。シフトを変わってくれた彼女は寿司カウンターの担当だったので、私も寿司カウンターで働くことになった。寿司カウンターには常連さんが多く、いつも同じ物をオーダーする人が多いので、彼らの嗜好を覚えてしまうと対応するのは難しくなかった。常連さんの中に、いつも一人でやってきて本を読んでいるオーストラリア人男性がいた。ある日、彼は板前さんや他のお客さん達に、読んでいる本から見つけたクイズを出した。誰も答えられずシーンとなった時、通りかかった私に彼が水を向けたので当てずっぽうで答えると、それが正解でその場は盛り上がった。大喜びした彼は、その後も私の顔を見るとクイズを出すようになった。寿司カウンターのお客さんは、テーブル席のお客さんよりもスタッフとの会話が多いため、他のウエイトレスよりも若干英語が出来た私は重宝されているように感じた。自分の居場所を見つけたようで嬉しく、他のスタッフ達との距離も少しづつ縮まっていった。このレストランで私は多くの事を学び、ウエイトレスの仕事を心から楽しいと思えるようになった。当時のスタッフの数人とは今でも仲良くさせて貰っている。

ウエイトレスとして働いていた寿司カウンター。
セレブリティもやってくるメルボルンでは有名な老舗レストラン。
賄い食は最高に美味しかった。

通訳・翻訳のコースを1年で終えたが、永住権を取るためにはもう1年学校に通わなければならず、ITの専門学校に入学した。学費捻出のために更なる収入が必要だったので、当時住んでいた家の近くにあったコンドミニアム型ホテルに履歴書を持参し、ハウスキーピングに雇って欲しいと頼んだ。経験は無かったが「日本に居た頃に旅館でハウスキーピングの経験が有る。でも、日本は布団でベッドメイキングはやったことが無いので教えてください」と嘘をついた。連絡が無かったのでダメだったのだろうと諦めていたが、1か月経った頃に今までのスタッフが辞めたので来て欲しいと電話が有り、採用された。

当時、私達のような外国人を雇っているレストランや小売店等では、私達の時給はオーストラリアの法定時給よりも低いことが当たり前だった。オーストラリア人のように英語を完璧に話せないのだから仕方がないと思っていたが、ホテルの仕事は法定時給で、土曜は1.5倍、日曜祭日は2倍の時給を支払って貰えたので、経済的に大きな支えになった。両親が遊びに来た時には、このホテルにスタッフ価格で泊めて貰った。

ITの学校を出た後は、日系の人材派遣会社1社と、地元の人材派遣会社2社に登録し、地元の人材派遣会社から弁護士事務所の翻訳の仕事を紹介された。その後、永住権の申請要件を満たすためにメルボルンを出なければならず、クイーンズランド州で仕事を探した様子は前のエッセイで紹介しているので、良かったら読んでください。

私がオーストラリアに来て仕事を探したのはもちろんお金のためだったが、それぞれの仕事で得たものはお金以上のものだった。友人、経験、そして自信。それぞれの職場での一つ一つの経験が今の私を支えてくれていると感じる。

仕事を探している時にオーストラリア人の友人から、履歴書にしても面接にしても「自分は出来る!」ということを強調し、最大限に自信をアピールすることが大切だと言われた。謙虚、控え目を美徳とする私達日本人には気恥ずかしく思えるが、オーストラリアでは自信が無さそうな人に仕事を任せようとは思わない、というのは自分が採用する側になってみるとよくわかる。自信が無くても「自分は出来る!」と振る舞っていれば、実際に出来るようになる事もある。Fake it, Make it. 仕事探しの際にはぜひ思い出して欲しい。

熊谷 美保

福岡県出身。2003年通訳・翻訳の勉強にオーストラリアのメルボルンへ。 2007年、ケアンズへと移り地元の不動産会社に就職。その後、当時のパートナーと不動産会社DJスミスプロパティを設立し、2017年に単独オーナーとなる。 ケアンズで不動産仲介、賃貸管理業務を行い、日本人のお客様にもご愛顧頂いている。 今は翻訳の仕事から離れているが、いつの日かオーストラリア人作家の作品を日本に紹介するのが夢。

Facebook Twitter LINE はてなブログ Pin it

このページの先頭に戻る