翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー
  • HOME
  • 翻訳学習
  • ベトナムつれづれ。(9)スーパーはワンダーランド

翻訳学習

ベトナムつれづれ。(9)スーパーはワンダーランド

ある日ハイフォンのスーパーで、私は天井近くまで商品が積んである陳列棚を見上げ、思わず「疲れた」とつぶやきました。上から下まで、ベトナム語のパッケージの商品が詰まっている。めまいを起こしそう。

いや、それだけではありません。

ここのスーパーに来ると、私はいちいち戸惑い、そして立ち止まっている。

店に入ってから店を出るまで、ずっと。

だから、疲れるのです。

ロッカー

ハイフォンのスーパーの入口には、警備員が立っていました(警備員のいない店もあったが、当時はいる店の方が多かった)。

バッグを持った客が店に入ろうとすると、警備員がバッグや荷物をロッカーに預けるよう注意するのです(万引き防止のため。財布とスマホしか入らないミニポーチならば持ち込める)。

いつだったか、私は面倒になり、小さいサイズのリュックを背負ったまま入口を素早く通り抜けようとしたことがありました。すると案の定、警備員に止められ、背中のリュックを丸ごと透明のビニール袋で包まれ、中を開けられないように上から両端をパチンパチンとホッチキスで閉じられてしまいました(これは滅多に起きない。店に入る前にきちんと荷物を預けておけばよいだけ)。

空心菜

店に入ってからも、戸惑うことばかりです。

例えば、野菜売り場に行くとします。山のような緑の葉っぱたちの近くには、cải ngọt, cải chíp, cải cúc…とヒゲやら点やらがついた文字の表記が並んでいます(左から順に、小松菜、チンゲンサイ、春菊。その場でスマートフォンを取り出して調べる気は起きない)。

もう頼りになるのは自分の勘だけ。

見た目が小松菜ならば、小松菜だ。エイヤッとカゴの中に入れるしかない。

いや、待てよ。

その前に店員がいるコーナーに行き、重さを量ってもらい、値段のシールを貼ってもらわなければならなかった。

肉の特設売場

ハイフォンのスーパーでは、野菜や果物はもちろん、肉も魚も、すべて量り売りが基本でした(パック詰めは「誰が、何を、どうやって詰めたんだ?」と不安になる人が少なくないとか)。

銀色の平たいバットの上には肉の塊がごろんと並んでいます。

鮮やかな赤、黒味を帯びた赤、薄いピンク、黄味を帯びたピンク。

でも、私には何の肉だかさっぱりわかりません。

牛肉のつもりで「それ」と塊を指さして切ってもらったら、ヤギ肉かもしれない(ベトナムのスーパーではヤギ肉も売っている)。しかも、「○○グラム」はベトナム語でどう言うのだろう。これからずっと、見た目でわかるトリの手羽先だけを、両手を広げて「10本」買うことにしようか。

食べ物の選択肢が狭まっていくとしても仕方がありません。

でも、やはりそれでは困る。

メラメラと闘志が湧き上がります。

「食べ物の恨みは恐ろしい」といいますが、食べ物のためならば人(=私)は努力するものらしい。

私だけの新しい格言です。

豚の部位図

そんなわけで、「こんにちは」「ありがとう」の次に私が覚えたベトナム語の単語は、豚肉、牛肉、鶏肉なのでした。次いで、肩、モモなどの部位。そして1から10の次は20ではなく、肉を切ってもらう時に指定する200gや300g。しかもグラムつきの数字。

食の範囲を広げたい一心で、私はレシートを活用することも思いつきました。

購入した商品が印字されているレシートを食い入るように見つめ、googleの翻訳画面を片手に、やっぱり「小松菜」だったのか、魚の「アジ」だ、と自分の予想と正解をゲーム感覚で答え合わせをし(サトイモだと思ったらキャッサバ芋だったという失敗もある)、次回買いたいものはメモして記憶までするように。この情熱を別の目標に向けられたらいいのに、と苦笑しながら。

ただ、意外なことに、こうやって収集した「食材単語」は、日本から持ち込んだ参考書の単語よりもはるかに私の記憶に残ることになったのでした。

深海魚の形をした皿

私は欲しい商品をどんどんカゴの中に入れるようになりました。心配は無用です。正体はレシートを見ればわかるから。

その結果、小さいコーヒーミルが「コショウ」ひき、深海魚の形をしたオブジェが「皿」、女性用のパジャマが「男性」用の「ズボン」だったなど、レシートで自分の予想と正解のズレが判明するとともに、ベトナム語の単語のレパートリーも広がっていきました。

そう、ベトナムのスーパーに売っていたのは生鮮食品だけではありませんでした。食器、鍋、家電、化粧品、衣服、靴、ドラえもんの漫画まで何でも売っていたのです。まるでドラえもんのポケットから次々と商品が出てくるかのように。

そのうち、頼まれもしないのに、私はバイヤー気取りでヒットしそうな商品を探すようになりました(私がレジに並んでいると、カゴに入れた商品を「ナニソレ?」と後ろの人に覗き込まれて面白がられることもあった。そうなればシメシメ)。もはやスーパーは食材を買うだけの場所ではありません。「今日はどんなモノに出合えるか」というワクワクがいっぱいの、ワンダーランドなのでした。

エスカレーターから見た店内

とはいえ、そんな心躍るスーパーも、私にとってはあくまで「買い物をする場所」の一つ。そういう意味で、もう一つの「買い物をする場所」の近所の市場とさして変わりはありませんでした。

でもある時、ベトナム人の知人が教えてくれたのです。ベトナム語の「スーパー」siêu thịと「市場」chợにはニュアンスの違いがあることを。

つまり、ベトナム語の「スーパー」siêu thịは、感覚としては日本の「スーパー」よりも「デパート」に近いというのです。そして、むしろ「市場」chợ が、普段、食材などを気軽に買いに行く場所であり、日本の「スーパー」にあたるというのです(そう言われてみると、私がよく行っていたハイフォンのスーパーは、映画館などが入っている商業施設の一角にあった)。

どうりで、平日の午前中、私が買い物から帰ると「市場に行ってきたの?」とベトナム人からよく聞かれ、私が「○○スーパーに行ってきた」と店名までつけ加えて答えると、何だかぎこちない雰囲気が漂ったわけです(私のベトナム語が片言のせいもある)。

それから、平日のスーパー(特に朝や昼間)はガラガラなのに、土曜日の夜(ベトナムの一般企業は土曜午後と日曜日が休み)になると、家族やカップルがどこからか現れ、カートを押す人、人、人でごった返す、という謎も解けたのでした。

日本のデパートが気晴らし、憂さ晴らし、ついでに衝動買いまでするかもしれない場所とすれば、休日のベトナムの「スーパー」も、そういう場所になり得るわけです。

スーパーの2階

ベトナム語の「スーパー」siêu thịの意味合いを理解できるようになると、ハイフォンのスーパーの入口に警備員がいるのも、生鮮食品は市場と同じ量り売り方式なのも、何だかわかるような気がしたのでした。

字面だけの「スーパー」siêu thịが現実の実感を伴ったことばに変わった時、私の中でバラバラだった何かが一本の線でつながり、ハイフォンのスーパーに対して抱いていた、あれこれの戸惑いや違和感は氷が溶けていくようにすっと消えたのでした。

ある日突然、大きな出来事が起きたわけではありません。

でも、身近な、ごくありふれた些細なことでも、いや、そうだからこそ、それに合点がいくと自分が思えるようになった時に、新しい価値観を受け入れられたことを実感するのです。

私は港町ハイフォンの生活に徐々に慣れ、その日常の中にもワンダーランドのような楽しみがあると感じられるようになりました。今思えば、それは、私にとってハイフォンのスーパーが戸惑うばかりだった場所からワクワクする場所に変化した、ちょうどその頃からでした。スーパーはワンダーランド、そう思えるようになったから、なのです。

出口でスタンプ

※追記:以下は、アメリカの大学で使用されるベトナム語学習教材から抜粋した文章の一部。英語のスーパーマーケットsupermarketとベトナム語のsiêu thịの違いについて述べられている。「アメリカのベトナム人コミュニティで使用されるスーパーsiêu thịという単語は主に食品を買いに行く場所である英語のスーパーマーケットsupermarketと同様の意味で使用されるが、ベトナムにおけるスーパーsiêu thịは、あらゆるもの(食品を除く)を購入できる大きなデパートdepartment storeを意味する」と述べられている。この後に続く文章において都市部のスーパーでは食品も購入できることが補足されている。The word siêu thị used by the Vietnamese communities in the U.S is similar to the English word “supermarket”, where one goes primariy to buy food. A siêu thị in Vietnam, however, connotes a big department store where one can purchase everything but food.

Binh Nhu Ngo Ph.D., Elementary Vietnamese, 3rd ed., TUTTLE Publishing, 2013

福田 理央子

慶応義塾大学法学部卒業。同大大学院法学研究科修士課程修了。小学校時代のほとんどを米国で過ごし、英語を使う仕事に興味をもつようになる。法務分野の和訳と英訳両方のTQEに合格後、フリーランス翻訳者としての仕事をスタート。現在は、主に法務分野の翻訳(英日・日英)に携わる。「ことばのエキスパート」を目指して法務翻訳以外(街歩きガイドブック、交渉学の論文アブストラクトの英訳など)にも積極的に取り組む。密かにポリグロット(多言語話者)に憧れ、英語以外の言語も少しずつ勉強中。英検1級。

Facebook Twitter LINE はてなブログ Pin it

このページの先頭に戻る