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海外だより

2022.12.02

日本滞在〜英語歌舞伎講演会とドナルド・キーン展示会〜①

2022年9月23日、私は今年になって4度目の帰国をした。実家の事情により1月〜2月初旬までの1ヶ月半、6月初めから7月中旬まで約1ヶ月半、8月には急遽2週間日本に帰ることになった。

そして、今回9月23日からの4度目の帰国は、夫と私がポートランドで携わってきた英語歌舞伎「鰯賣戀曳網」の講演と英語歌舞伎の一部分を早稲田大学で公演するためだった。この講演会は、ドナルド・キーン財団と早稲田大学の協賛で企画され招聘していただいた。

私にとっては今年4度目の帰国だったが、外国人である夫は、コロナのため2年9ヶ月の間日本に入国できなかった。昨年12月に「配偶者ビザ」を取得し航空券も買ったのだが、新種「オミクロン株」の出現で入国禁止になってしまった(参照:パンデミック下の日本帰国〜私の場合③)。日本文学、日本伝統芸能の研究者である夫は、今回の日本行きを首を長〜くして待っていた。PCR検査の陰性証明の提示は無くなったものの、まだビザなしでは入国ができなかったため、再度「配偶者ビザ」を領事館に申請し、許可をもらっての入国だった。私自身は日本国籍であるので全く問題なかったのだが、アメリカ人はビザが必要だったので、他の講演会出演者たちは、ビジネスビザや留学生ビザを取得して入国した。

日本政府の観光客受け入れについては、その後ツアー観光客ばかりでなく一般外国人観光客の受け入れも徐々に拡大していった。日本旅行を2年半以上閉ざされていた外国の人たちにとっては、待ちに待った「開国」であった。

さて、早稲田大学での講演会は9月29日に開催された。コロナ下ポートランドから7人で来たので、コロナにもかからず東京に全員が揃い講演ができたことは、とても有難かった。

私も出演者全員の衣装をアメリカから持参し、演技する学生たちに着せ、「英語歌舞伎における衣裳と鬘の解説」というタイトルで35年あまり関わってきた衣裳と鬘作りについて講演できたのは喜びだった。またこのコロナ下、早稲田大学の小野講堂も満席の観客を集めることができ、たくさんの方々から、「英語歌舞伎を見たことがなかったが、このように楽しい講演会は初めてだった」と喜んでいただいたのは嬉しかった。

講演会のチラシ

蛍火役のEmilyに着物を着せ、鬘をつける筆者

新聞に載った記事

さて、夫の今回の日本滞在の目的はいくつかあった。9月29日の「英語歌舞伎」の講演会が最も大切な行事であったことは言うまでもない。しかし、夫にとって、恩師故ドナルド・キーン先生の御養子キーン・誠己氏が企画されてきた「生誕100年 ドナルド・キーン展」を観にいくことも大切な予定の一つだった。軽井沢で開催されていたこの展示会は、すでに横浜・京都でも公開され、軽井沢が最後の開催地であった。夫は展示会にあたりエッセイを寄稿していたこともあり、どうにか最終日に間に合うのであれば観に行きたいと思っていた。

ドナルド・キーン先生は、2019年2月に逝去された。その功績を後世に残すべく、御養子になられたキーン誠己氏が「ドナルド・キーン財団」を立ち上げられたのは、2020年5月だった。

今年は、1922年にニューヨークのブルックリンで生を受けられたキーン先生の生誕100年に当たる。財団は、これを記念すべく展示会を準備されていたようだ。

「生誕100年 ドナルド・キーン展」は、横浜での3ヶ月に渡る展示会の後、キーン先生とゆかりの深かった京都と軽井沢でも長期で開催された。夫は軽井沢の展示会の閉会2日前に訪れることができた。

私は、7月の滞在時、横浜の展示会を私の妹と息子、娘と4人で観にいった。その展示内容の素晴らしさはもちろんだったが、入場者が次々と訪れ熱心に展示物に観入っているのを見て、死後3年以上経ってもキーン先生を慕い偲んでおられる方がたくさんいるのだと感動した。

軽井沢の展示会は、キーン誠己氏が東京から同行してくださるとのことで、夫と私にとっては一層楽しい訪問となった。

展示会場「軽井沢高原文庫」は、近代文学者の資料や作品が展示されている。駅から離れたリゾート地の近くにあるが、軽井沢にふさわしい木々に囲まれた風情豊かな美術博物館である。


展示会場

生前のキーン先生が親交を深めておられた方々の寄稿文集。
どの方のエッセイも心温まる思い出にあふれている。

軽井沢高原文庫敷地内に移築された「野上弥生子」氏の書斎兼茶室

横浜での展示会は人が多かったのと、広い会場に展示物も相当数揃えてあったので全てをゆっくりと観ることができなかった。一方軽井沢の展示会場は、それほど大きくなく、私は時間をかけ一つ一つを丁寧に観ていった。展示物を間近に観て読み取ることができ、横浜でゆっくり観ることができなかったものをまた見直す機会があったので一層良き訪問となった。

下記の言葉は、キーン先生の本の中から抜粋してあった文章である。私は、展示会場でこれらを読みながら感銘を受けたので、少し紹介したい。

本当の天才とは、簡単には説明することのできない能力の持ち主のことだ。シェイクスピアは天才だった。モーツアルトも、レオナルド・ダ・ヴィンチも、紫式部も天才だった。私がこれまでに出会ったすべての人々の中で、「この人は天才だ」と思った人は2人しかいない。(註:一人はアーサー・ウエーリ。中略)私の出会ったもう一人の天才が三島由紀夫である。彼と私の付き合いは、十六年ほどに及んだが、彼の圧倒的才能には絶えず驚かされたものだ。
『二つの国に生きて』より
私は1965年の七月に軽井沢へ行き、その夏を『徒然草』の翻訳に没頭した。
来る日も来る日も雨ばかりの夏で、人にも会わず出歩きもせず、一生懸命に訳した。前にも少し書いたが、まるで自分が兼好法師になりきったような錯覚がし、翻訳であるのに、あたかも自分が最初から英語で考えながら書いているように感じた。
完璧な翻訳だというつもりはないが、太宰治の『斜陽』の時を除いて、あのような気持ちを持ったことはまずない。なんの苦労もなく、自分が描きたいことを自分の言葉で書いているという気がした。
『日本文学のなかへ』より
やがて私は、『源氏物語』に心を奪われてしまった。アーサー・ウエーリの翻訳は、夢のように魅力的で、どこか遠くの美しい世界を鮮やかに描き出していた。私は読むのをやめることが出来なくて、時には後戻りして細部を繰り返し堪能した。私は、『源氏物語』の世界と自分のいる世界とを比べていた。物語の中では対立は暴力に及ぶことがなかったし、そこには戦争がなかった。主人公の光源氏は、ヨーロッパの叙事詩の主人公たちと違って、男が十人かかっても持ち上げられない巨石を持ち上げることができる腕力の強い男でもなければ、群がる敵の兵士を一人でなぎ倒したりする戦士でもなかった。
『ドナルド・キーン自伝』より

キーン先生の書籍は60冊を超え、エッセイや寄稿された文献は数知れないと思う。この抜粋された3つの文章に触れるだけでも、キーン先生の謙虚さ、暖かさ、そして日本文学をこよなく愛し、たくさんの日本文学を翻訳し世界中の人たちに紹介されたかった気持ちが現れていると思う。

第二次大戦終戦直後、先生は、世界中から非難を浴び嫌悪されていた日本、日本人に対し、「日本には素晴らしい文化がある、日本文学がある」と日本、日本人を肯定し日本文学者になられた。その後、文化勲章まで受賞されるに至ったキーン先生を私は尊敬している。

キーン先生は、自宅がある東京北区西ヶ原の地域をとても愛しておられた。また、先生は、軽井沢の別荘での簡素な佇まいの生活も楽しんでおられた。1960年代から日本に来られると夏の間は軽井沢に避暑を兼ねて出かけられ、兼好法師のように「徒然なるままに日暮らし、机に向かって」日本文学を研究してこられたのだった。私は先生の別荘に一度伺ったことがあるが、正に「キーン庵」と呼ぶのが相応しいような住まいである。

キーン先生は、この地でもたくさんの人たちに巡り逢われ友好を深められ有意義な日々を送られてきたと聞いている。しかし、近年たくさんの別荘が建てられ、また大手のデベロッパーによる開発で観光地化してしまった軽井沢を少し残念に思われていたようだ。

私たちは、その開発によって作られた温泉の一つに入って疲れを癒し、美味しい食事をして東京に戻った。

大手ディベロッパーによって開発された温泉。
多くの観光客で賑わっていた。

友人が送ってくれたポートランドの今年の美しい紅葉

参照:“バックナンバー”「Did you know that?」
No.75 「ドナルド・キーン先生のこと

田中 寿美

熊本県出身。大学卒業後日本で働いていたが、1987年アメリカ人の日本文学者・日本伝統芸能研究者と結婚し、生活の拠点をオレゴン州ポートランドに移す。夫の大学での学生狂言や歌舞伎公演に伴い、舞台衣裳を担当するようになる。現在までに1500名以上の学生たちに着物を着せてきた。2004年から教えていた日本人学校補習校を2021年春退職。趣味は主催しているコーラスの仲間と歌うこと。1男1女の母。

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