海外だより
2023.12.25
クリスマス(その1)
いつの間にか12月になってしまった。日本人にとって12月といえば、「師走」という言葉に代表されるように、新しい年を迎えるにあたって一年の最後の大忙しの時である。古来「正月」はとても大切な習慣だから、気持ちの上でも実際の行動の上でも盛沢山である。
そんな中、本来なら日本にはなかった「クリスマス」も今では別の意味での重要な風物詩となっていて、12月の声を聞けば街はすっかりその雰囲気になる。東京の青山に長く住む友人から、有名店舗や通りなどのクリスマスの飾りやイルミネーションの写真が送られてきた。
母も私もカトリックの学校に通ったからか、私自身物心ついた頃からクリスマスは生活習慣の中にあり、なんの不思議もなく「プレゼント」や「サンタクロース」もいてくれた。
そして、和食ではない洋風のちょっと特別な食事を、少しドレスアップして食べに行ったのは小学校3年生くらいだっただろうか。テーブルの上のナイフやフォークを「外側から使うのだよ」と父が教えてくれた。当時住んでいた名古屋には、確か、“洋食レストラン”が一軒しかなかった、、、と後から聞いたような気がするが、クリスマスケーキはとてもおいしかったし何となく嬉しくて、それはちょっぴり「外国への窓口」でもあった。
昔のクリスマス。3歳頃?
クリスマスといえば、私には忘れられないクリスマスのシーンがいくつかある。ドイツのハノーバーに住む夫のいとこの家でのクリスマス会がその一つだ。
当時住んでいたパリからハノーバーへ向かう飛行機が「とんでもない雪」のために遅延し、結局飛び立てないまま、夫と私は空港のホテルで一晩を過ごすことになった。
一度チェックインしたスーツケースをまた受け取って、空港近くのホテルに入った時は深夜になっていたが、洗面をするためにスーツケースを開けようとして、何かおかしいことに気付いた。
いつものように、さっと鍵が使えず、どうにか開けて洗面道具を出そうとした時、真珠の指輪がポロリと落ちた。
どうして??
いくつか持ってきた装飾品は、“大事袋”に入っていたはずなのに。
泥棒?
私は慌ててそのお気に入りの真珠の指輪を袋にしまいながら中身を確認したが、無くなったものは特になかった。でも、洋服の下に入れてあった、プレゼント用の包みがなんだかとても汚くなっている。気持ちが悪かった。
「スーツケース荒らし」は度々聞いたことがある。
両親もだいぶ以前にパリのホテルの部屋でやられたことがあったのを思い出した。なんとも言えない不愉快さと不信感でいっぱいになったけれど、とりあえず、翌朝雪が収まってちゃんと飛べることを期待しながら眠りについた。
次の朝、スーツケースの閉めにくくなった鍵を再びかけていると、前夜の怒りがまたふつふつと湧いてくる。
搭乗手続きをする前に、やはり一言文句を言いたいと思い、空港の職員に詰め寄ったが、「早朝なので警察はまだ来ていないし、とりあえず、被害がないならいいじゃないですか」というなんとも無責任な返答である。確かに、彼としたら、「そんなこと知ったこっちゃない」という感じかもしれないけれど、、、
いささか呆れながらも、「荷物検査をするなら一声かけてほしかったですね」と言い、とりあえず飛行機に乗り込んだ。
実は、前日に「とんでもないテロ騒ぎ」も同時に発生していたのだが、それが分かるのはさらにその翌日、いとこの家でドイツのニュースを見てからであり、パリを発つ時は知る由もない。
その事件のことは、ここでは語らないが、とにもかくにもさんざんなクリスマス旅行の幕開け、2001年12月23日のことだった。
ハノーバー市役所
ハノーバーを訪ねるのは夫も私も初めてである。前夜パリを苦しめた大雪は、さらに寒いドイツ北部の街を白一色に埋めていた。
雪のせいもあって(と、その時は思った)人っ子一人いない町のだだっ広い広場に、20世紀初頭に建てられた宮殿のような大きなハノーバー市役所がでんと立っていた。
パリ市庁舎よりも立派!
隣国とは言え、民族も違えば言語も宗教も違い、しょっちゅう“仲たがい”もしていたのだから当たり前かもしれないけれど、似ているようで似ていない建物や町の雰囲気がとても興味深かった。
レンガ造りの堅牢なイメージとか、とんがり帽子を積み上げたようなファサードの装飾とか・・・パリではあまり見かけない建築の数々を見上げながら、寒さを忘れて歩いた。
第二次世界大戦の爆撃で屋根などが壊されてしまった教会は、煤で黒いままの石積みの壁を残していたが、かつて身廊だったと思われるところはまるで“中庭”で、そこには大きな十字架を据えた祭壇があり、しずかに雪を被っていた。薄暗い空が重くのしかかる。かつてそこには多くの人々が集っていただろう、と思うと今にも悲しみの雨が降り出しそうな気がした。
遺構、“負の遺産”でもある教会は、私たちに戦争という無残な歴史を忘れさせないための構造物だ。その意味では、今も“現役”の教会ともいえるかもしれない。(つづく)
北原 千津子
東京生まれ。 大学時代より、長期休暇を利用して欧州(ことにフランス)に度々出かける。 結婚後は、商社マンの夫の転勤に伴い、通算20年余を海外に暮らした。 最初のパリ時代(1978-84)に一男一女を出産。その後も、再びパリ、そしてロンドンに滞在。 2013年、駐セネガル共和国大使を命ぜられた夫とともに、3年半をダカールで過ごし、2017年に本帰国した。現在は東京で趣味の俳句を楽しむ日々である。