海外だより
2023.02.02
日本滞在〜新潟『西生寺』参拝〜③
2022年10月、早稲田大学での講演会を終えた後、夫と私は今回の日本滞在中に2023年度の学生英語歌舞伎「The Adventures of High Priest Kochi–越後國柏崎〜弘知法印御伝記」に関わりのある場所を訪れることにしていた。
「弘知法印御伝記」の物語生誕を辿るのに最も大切なお寺が新潟県長岡市にある「西生寺」であった。(参照:日本滞在〜古浄瑠璃「弘知法印御伝記」について〜②)
私は、インターネットで「西生寺」について少しだけ読んでいたが、「弘知法印の『即身仏』を本当に見ることができるのかなぁ」と言うぐらい軽い気持ちで新潟に向かった。
西生寺の住所は長岡市だが、東京から上越新幹線で行くと長岡駅ではなく金属加工業で有名な「燕三条駅」を利用した方が近い。
燕三条駅でレンタカーを借り、弥彦山の麓から狭い山道を20分ほど登って行った。すると突然、右手に「弘智法印霊場」という大きな石碑が見えた。
「ここが西生寺だよね?西生寺って書いてないけれど・・・。弘智の『智』が弘『知』法印御伝記と違うね」などと話しながら一旦車を降り写真を撮った。
弘智法印霊場石碑
そこから中に入って行くと広い駐車場と奥に立派な建物が見えてきた。
ここが「西生寺」であった。
西生寺社務所
西生寺の歴史とは?
「西生寺」は、1300年の歴史と伝統を持つ古刹(こさつ)である。
奈良時代733年に奈良の東大寺大仏建立に関わった「行基(ぎょうき)上人」という仏教僧が、2000年以上前に鋳造されたというインドから飛来した純金の阿弥陀仏(弥彦山中腹に安置されていた)を自らの手で彫った木造の「阿弥陀如来仏」に「お腹ごもり」として祀られた時を開創とするそうだ。
私は仏教やお寺の歴史ことは余りわからないが、奈良時代と知り、当時腐敗しつつあった日本の仏教を立て直し、仏教布教のために中国から苦節を経て渡来した鑑真和上のことを思い出した。後に唐招提寺に祀られた鑑真和上が、日本での仏教の普及に掛けられた信念と勇気ある生き様に感動したのを覚えている。余談だが、約1000年後、松尾芭蕉は唐招提寺を訪れ鑑真和上像に対面し、日本に来られて幾度となく流されたであろう涙を思い和歌を詠まれた:「若葉して御目の雫拭(しずくぬぐ)はばや」〜私は、芭蕉とはなんと心優しい人だったのだろうと思った。
西生寺の開創がこの鑑真和上が日本に来られた756年とほとんど時が同じであることを知り驚いた。
西生寺の伽藍(がらん)や境内はとても広く立派である。1145年、奈良興福寺の「寿奎(じゅけい)上人」は、「お腹ごもりの阿弥陀如来仏」を現在の場所に移され、それに伴って境内を大きく整備されたとのことだ。
西生寺境内には、1208年(承元2年)、親鸞上人が36歳の時に植えられたと言う樹齢800年の大銀杏が仏霊堂の側でそびえ立っている。
親鸞上人が植えられた樹齢800年の銀杏の木
「弘知法印御伝記」の人物のモデルとなられる「弘智法印」は、現在の千葉県で生を受けられ、奥州などで多くの寺の建立に貢献された。高野山での修行を含め長年の修行後、西生寺「奥の院」にて厳しい3000日の木喰(もくじき)行(穀十穀断ちを含む)などを経て「即身仏」となられた。
御入定は1363年10月2日、御歳66歳であった。
「弘智法印」御入定後、即身仏を拝観するために歴史的な人物も数多く訪れたようだ。加藤清正、松尾芭蕉、良寛和尚なども軌跡を残しておられる。良寛和尚は、西生寺に半年ほど滞在され、漢詩「弘智法印像」を残されている。加藤清正公の書簡や田中角栄氏の立派な掛け軸も展示されており、このお寺を多くの著名人が参拝されたことを知った。
良寛和尚の漢詩「弘智法印像」の立て札
「ごつごつとして黒くきびしい藤の枝は、夜雨に打たれて朽ち、美しく立派なお袈裟は暁の煙と化した。しかし、誰がこの弘智法印の本当の目的を知っているのだろうか?それはただ『弘智法印の辞世の句』の中にのみあり、時空をつらぬいて伝わっているのだ」
『岩坂の主は誰そと人問わば 墨絵に書きし松風の音』
加藤清正の書簡(書翰)と新潟出身の元総理大臣“田中角栄”の掛け軸
この参拝に際しては、キーン・誠己氏のお兄様とカメラマンのご友人が現地で合流してくださり、また私の妹も東京から同行していたので賑やかな一行となった。幸いなことに、ご住職自ら境内を歩きながら歴史にゆかりのある建物や展示物など一つひとつ丁寧に説明してくださり、次第にこのお寺の長い歴史と弘智法印の関わりを深く知ることができた。境内は驚くほど広く、多くの立派な建物があった。またその建物に施された素晴らしい彫刻や絵画、展示物などを実際に見ることによってこのお寺の歴史と重厚さを知った。
ご住職は「弘智法印即身仏」が安置されている仏霊堂に案内してくださった。
約220年前に建立された「弘智法印即身仏霊堂」
伊藤隆英氏撮影
お堂の建物に施してある彫刻はどれも見事なものであった。
内部には、歴史を思わせる奉納の芸術作品が数多くみられた。
即身仏とは?
「即身仏〜そくしんぶつ」と聞いてすぐに何かわかる人は少ないのではないだろうか。私自身もミイラと即身仏の違いなど考えたこともなく、ミイラと言うと、即エジプトのミイラが思い浮かんだ。
即身仏とは、ミイラの一つのようだ。仏教僧、特に真言宗、密教の僧侶が過酷な修行の末、土中の穴などに入定し、瞑想状態のまま絶命しミイラ化したものとされている。3000日〜4000日をかけて自然に朽ち果てていく苦行とはどんなものだろう。なぜこのような苦行をするのだろうか?
即身仏になることを決断した僧侶は、その昔、天災、飢饉、疫病などで飢え、苦しむ人々を救うため、この世の苦悩を一身に背負い、木喰行、断食行をし、民衆救済を祈願しながら土中入定し死を迎える。真言宗の開祖、弘法大師空海(774年〜835年)が高野山の奥の院で即身仏になったという説があり、江戸時代には、即身仏ブームさえ起きたという逸話もあるほどだ。
しかし、即身仏になる覚悟をし修行に入っても誰もが成就できたわけではないようだ。もし、なんらかの病があると死後身体が腐ってしまう。あるいは人間の生命維持に欠かせないタンパク質などの食料を摂取すると即身仏になれないなど。時をかけ絶命するためには、まず基本的に健康体でなければならない。そして水と自然界にある特殊な植物を摂取して朽ち枯れて行った時のみ、即身仏となる。想像を絶する苦行を乗り越えられた僧侶のみ即身仏になれる・・・。
現在も日本全国には、弘智法印を初めとし24体の即身仏があり、「即身仏巡り」をする人もいるという。
「弘智法印」即身仏を拝む
「弘智法印即身仏」が安置されている仏霊堂は、境内の少し奥の上方にあり、途中に大きな弘智法印立像が出迎えてくれる。お堂はこじんまりとしているが、建物には芸術作品である彫刻が施され、重厚さが伝わる。
弘智法印石像
ご住職は、堂内で一通りの説明をしてくださり、弘智法印様(敬意を評し“様”と呼ばせていただく)の写真は撮らないようにと言われた。
弘智法印様は、立派な帽子と衣を召されていたが、少し前かがみになっておられ小さく見えた。学術調査で判明した弘智法印様の身長は179センチで、当時を考えると大きな男性だったようだ。
前かがみになっておられるのは、戦国時代に奴兵に槍で突かれ、その衝撃が原因だそうだ。
ご住職は、私たちのために御経をあげてくださった。私たちは、初めて拝観した弘智法印様に頭を垂れるのみであった。
私は、もし夫が古浄瑠璃「弘知法印御伝記」を大学の英語歌舞伎に変えて公演しようと思わなければ、西生寺を訪れることもなければ、弘智法印様や即身仏についても知ることも調べることもなかっただろう。私は九州で生まれ育ったので、学校などで即身仏について聞いたことなど全くなかった。多分気温が高く湿気が多い地域では、即身仏の「行」をすることはできなかったのではないだろうか。ほとんどの即身仏は北日本の寒い地域に存在するようだ。「弘知法印御伝記」を通して、また西生寺を訪れることによって、私は、本や教科書から学ぶよりもっと深く歴史を直に見、感じ取ることができた。
日本の歴史も争いの時代が長く続いた。幾多の戦争もあった。また長い年月の間に起きた自然災害、災難、伽藍などを保持するための財政問題などもあったことだろう。1300年もの時を超えて「西生寺」が現存するのは、その時代時代を乗り越え、守り継がれて来られた方々のご尽力があってのことだと思う。
西生寺を訪れ、ご住職にお会いし、このような貴重な経験をさせていただいたことに心から感謝しお寺を後にした。〜つづく〜
田中 寿美
熊本県出身。大学卒業後日本で働いていたが、1987年アメリカ人の日本文学者・日本伝統芸能研究者と結婚し、生活の拠点をオレゴン州ポートランドに移す。夫の大学での学生狂言や歌舞伎公演に伴い、舞台衣裳を担当するようになる。現在までに1500名以上の学生たちに着物を着せてきた。2004年から教えていた日本人学校補習校を2021年春退職。趣味は主催しているコーラスの仲間と歌うこと。1男1女の母。