翻訳ひといきコラム

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海外だより

調査

1月のパリ、セーヌ川。寒くてどんよりとした天候の日が多い。でも、観光客は、セーヌ遊覧船に乗る。(ハイシーズンに比べたら、とんでもなく ‛寂しい’ けれど。)

底冷えの朝の薬缶のちんちんと  ちづこ

1月13日。久しぶりに冬のパリ、CDG(シャルルドゴール)空港へ降り立った。

15年振りだろうか。直前に、珍しくパリに雪が降ったというニュースを聞いていたから、覚悟してのパリ入りだったが、拍子抜けするほど暖か(気温8℃)である。

もっとも、朝の8時というのに、真っ暗だ。

何年も忘れていた、この朝の暗さ。

タクシーの窓に、次第に色を薄める灰褐色の空を眺めながら、遥か昔、若い時代のパリの生活を私は思い出していた。

そう、40年も昔のこと。

エコール(幼稚園)に通い始めた3歳の長男が、父親に手を引かれて道を渡って行くのを、毎朝私は5階にある自宅の窓から見下ろしていた。

12月、1月の、真っ暗な朝。街灯の淡いオレンジ色の下を歩く小さな影を見ると、何だかちょっぴり切なくなった。

 

地球規模の気象変動で、季節感は当時と少しは違うのだけれど、地球の傾きが変わったわけではないのだから、時間の感覚は今も同じだ。ただ、セネガルや日本の冬を過ごすうちに、パリのことをすっかり忘れてしまっていただけ。

久々の冬のパリの朝が、若き日を思い出させ、日照時間がどれほど人の心に影響するか、気持ちを大きく変えてしまうことか、ということにも思いを馳せた。


ペリフェリックへの高速道路。朝の渋滞。

ペリフェリック(パリ市をぐるりと囲む自動車道)へつながる高速道路は、ちょうど朝のラッシュと重なり、タクシーは一向に進まない。

この辺りの景色はまだ「パリ」とは言い難く、わくわくと街並みを見ることもないので白々と明けて来た空を見ながら、私の思いは去年、2025年へと移った。21世紀も四半分が過ぎた。

この頃年齢のせいか、一年がとても速く過ぎるような気がするが、それにしても2025年は忙しい一年だった。

戦後80年、昭和100年ということを意識したわけではなかったが、初夏のドイツ旅行といい、思い出深い年である。また、5年に一度の「国勢調査」を、それこそ2-30年振りに体験したことも印象的な出来事だった。


去年秋の国勢調査のお知らせ

簡単に感想を述べると、「今の日本は、ほとんど何も聞かれないのだなぁ」ということ。

世帯人数とか、その構成とか、ほとんど聞く必要もないような内容だったことにとても驚いた。昔は、それこそ、個人情報(学歴とかも聞かれた気がする)に関する設問がたくさんあったような気がする。

調査用紙を読みながら、この程度の情報はすでにだだ漏れだろうに、、、と思ったが、言い訳のような説明書によると、各人がきちんと書いて提出することで「自治体として災害時などの対応が容易になる」のだとか。確かに、IDに関して非常に脆弱なシステムしか持たない日本ならでは、この程度のものでもそれなりに意味があるのかもしれない。昔と違うのは、提出方法が、ネットでOKというところに、少しは“発展”を見た。

国勢調査といえば、やはり、印象的なのは、英国である。

2011年にロンドンに住んでいた時にその調査を体験したが、「年齢」のみならず、「民族」「国籍」「宗教」「学歴」「職業」「性的嗜好」まで踏み込む内容に本当に驚いた。そして、10年に1回の調査の結果は1年後にさまざまな形で発表される。

もちろん、記載の詳細は100年経たないと公開されないが、それは、「100年後には必ず開示」ということで、古文書などの管理や保存に関しても、そのお国柄に目を見開く思いであった。(ロンドン便り;「人口のはなし」「人口のはなし(つづき)」)

フランスにはトータル10年近く住んだが、一度もその調査はなかった。調べてみると、「個人」をとても尊重する国としては、この手の調査は行わないらしい。しかし、100年前の、第一次と第二次世界大戦の間は、5年毎にパリ市が「市民調査」をしていた。今回、それをテーマとした資料展示会があったのだが、時間切れで行かれず、調査の目的がどこにあったのかは分からずじまいではある。しかし、20世紀初頭の、世界を巡る状況の変化とまんざら関係なくはなさそうだ。

だからこそ、その反省もあって(?)フランス国としては国勢調査を止めてしまった、という穿った見方もなくはないだろう。

もっとも、国を挙げての調査をやめたからと言って、国としての統計がないわけではない。人口にしても民族分布にしても、統計局のサイトにアクセスすれば、いろいろな情報が見つかる。

そして、たまたま、今回滞在していたアパルトマンでは、「パリ市の住民調査」なるものがあり、「へぇ、こんなこともやってるんだ」と、思いを新たにした。

アパルトマンの住民調査のお知らせが、
建物の入り口扉の内側に貼られていた。

調査員の紹介のちらしは、建物内のガラスの扉に。

近所の家並。どの建物も7-8階まで。
この辺りは住宅地なので、ほとんどが、アパルトマン。
一つの建物に20~30世帯くらいが生活しているようだ。

パリ市には、一軒家はほとんどない。市民のほとんど(全員と言っても過言ではない)が、アパルトマンという共同の建物の中の一部分を住居としている。(つづく)

北原 千津子

東京生まれ。 大学時代より、長期休暇を利用して欧州(ことにフランス)に度々出かける。 結婚後は、商社マンの夫の転勤に伴い、通算20年余を海外に暮らした。 最初のパリ時代(1978-84)に一男一女を出産。その後も、再びパリ、そしてロンドンに滞在。 2013年、駐セネガル共和国大使を命ぜられた夫とともに、3年半をダカールで過ごし、2017年に本帰国した。現在は東京で趣味の俳句を楽しむ日々である。

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