翻訳ひといきコラム

翻訳学校のサン・フレア アカデミー

海外だより

原風景

丸の内 お濠のそばの歩道。 クリステルはここを「まるでワシントン」と言った。世界のあちらこちらに転勤してきた彼女もまた、住んだ土地に愛着を持つようです。

久しぶりに渋谷の街を歩いた。
渋谷駅を経由して、世田谷とか横浜方面の私鉄路線に乗り換えることはしばしばあるが、その度に、どんどん変わっていく渋谷駅周辺の“迷路”を、半ばあきらめるように通るだけだったから、実際に、あのハロウィンなどで“悪名高い”渋谷の街に足を踏み入れるのは何年かぶりである。
数年前のこと、「渋谷からすぐ」とパンフレットに説明のあったホールでのコンサートに行くのに、二度も人に聞き、どうにかこうにかたどり着いた、という体験以来である。
その時に道を尋ねた一人目の答えは「分かりません」だったし、二人目がお巡りさんだったから良かったが、私の迷う姿に気付いた年配女性が「私もそこへ行きたいのですが、本当に難しいですよね。ご一緒していいですか?」と付いてきたのが楽しかった。この“いつもいつも大工事”の街に馴染めない人は決して少なくないようだ。

東京生まれのほぼ東京育ち。小学校5-6年生の頃には、目黒区の“西郷山”の官舎に住んでいたから、渋谷は目と鼻の先。その当時は、東京オリンピックに向けて、首都高速道路が出来上がる時でもあり、地域の変わりようには、それなりに目配りしていたが、渋谷に行けば大きな本屋さんがあり、プラネタリウムや名画座もあり、少しずつ行動半径の広がってきていた私にとっては最初の“文化的”な街だった。
しかしそれから半世紀もの時間が流れ、昔私が知っていた渋谷はもうそこにはない。
待ち合わせ場所としての“メッカ”でもあったあの「ハチ公」も、個人が携帯電話を持ち歩く時代にあって、存在意義が薄れてしまったらしい。渋谷駅を出た所は、いつもとんでもない数の人で溢れ(その多くが若者だが)、耳に飛び込んでくるのは外国語ばかりである。

西郷従道邸  「西郷山」の官舎の敷地内にありました。
今は、犬山市の《明治村》にあります。《明治村》が大好きで、
大人になってから何度か訪れました。写真は本帰国後の2018年のもの。

いつからこんなに変わってしまったのか、、、
件のコンサートの前に“しみじみと”渋谷を訪れたのは、フランスの友人、クリステルの初来日の時だった。
当時私はセネガルに住んでおり、たまたま一時帰国で東京にいたのだが、クリステルのリクエストの「超有名な交差点に行ってみたい」という希望を叶えるためだった。

確かに、日本のスクランブル交差点は、海外では時々話題になっていた。
「何しろ一度は行けと言われたのよ。」という言葉に半ば呆れながら、改札を出て、駅前広場に立ち、信号の変わるのを待った。私にとってはあまりに慣れっこのスクランブルを彼女が面白そうに眺めるのにつられて、私も交差点の人々をカメラに収めた。
「上の通路にも連れて行って。そこからが良く見えていいんですって」
「なんであなたがそんなこと知ってるの?初めての日本だというのに!」
驚きながらも、再び駅に戻り、下の道を見下ろせる所へとクリステルを連れて行く。
確かに、信号が青に変わると一斉にあちらこちらから人が入ってきて、誰一人ぶつかることなくすれ違い、そしてまた去っていくのを見るのは思いの外面白かった。
日本人(東京人?)にとっては何ら不思議のない「スクランブル交差点」である。それは単に効率よくスマートに交差点を行き来するだけの手段に過ぎない、と思うけれど、、、。外国人がこれほどまでに感心して写真まで撮ろうとしてくれるのはちょっぴり愉快ではある。

渋谷のスクランブル交差点 (2014年。クリステルに付き合って写真をパチパチ。)

今回渋谷の街を歩いて、私は再び、居心地の悪さを感じている。これもまた何度目の感覚だろうか。
もう40年近くも前のこと、6年余りのフランスでの生活を終えて帰国し、渋谷のこの交差点に立った時に、足がすくんで前に進めなかったことを思い出した。
あの時とは少し違うけれど、今は、もちろん、“すくむ”ということはないけれど、、、変化に魅力を感じない私がいる。それは子どもの頃の感覚が全く通用しないことへのとまどいかもしれない。そして郷愁ともいうべき西郷山への思い出が薄れていくことの淋しさなのかもしれない。
実際に、あの西郷山は、今は跡形もないのだ。

父の仕事の関係で、私は阿佐ヶ谷の官舎で生まれた。そして井の頭の官舎に引っ越し、小学校2年から5年は名古屋の官舎に暮らした。そして、再び東京の西郷山の官舎、六本木の官舎、、、
大学生の時に、両親が祖父母の土地に家を建て直すまで、私は官舎暮らしだった。だから、私の生活の基盤は常に官舎にあった。
官舎という“閉鎖的”な空間は、私の子供時代を本当に豊かなものにしてくれた。大人にとってはどうなのか分からないが、この「勝手知ったる人々の集まり」「常に守られている環境」というような空間は、こどもにとってはとても居心地のよい“社会”でもあった。
だから、私にとっての「原風景」のようなものは官舎という共同体にあると言っても過言ではない。
お茶の木の垣根とか、琵琶の木、柿の木、無花果の木。缶蹴りの音、隣家の犬の声。敷地全体を囲っていた塀だとか自転車を乗り回した敷地内の道だとか、月食を観測したテニスコートだとか、、、そしてそこで出会った人々、、、それぞれの官舎の断片的な思い出は案外明確な形で私の中に根付いていったのかもしれない。

ふるさとは都会の子にも柿の秋  ちづこ
 
六義園  夕方寒くなっても、クリステルはここをなかなか去ろうとしなかった。
 
皇居のお堀端 外国人観光客にははずせない散歩コース。

北原 千津子

東京生まれ。 大学時代より、長期休暇を利用して欧州(ことにフランス)に度々出かける。 結婚後は、商社マンの夫の転勤に伴い、通算20年余を海外に暮らした。 最初のパリ時代(1978-84)に一男一女を出産。その後も、再びパリ、そしてロンドンに滞在。 2013年、駐セネガル共和国大使を命ぜられた夫とともに、3年半をダカールで過ごし、2017年に本帰国した。現在は東京で趣味の俳句を楽しむ日々である。

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