海外だより
2025.10.28
アメリカでの「人生の終末」を考える②
義母は、検査処置のためにO H S U 総合病院(Oregon Health & Science University Hospital)に入院した。3日間だけだった。それ以上の入院は必要がないと診断され退院させられた。

義母が通っていたOHSU総合病院は、緊急時のヘリコプターも装備され、
高台にあるベッド数576床(2026年には750に増床)の病院。
医療の最先端を担い、日本からも難病や移植関係の患者がこの病院で治療を
受けることがある。川沿いの別院からケーブルカーで移動もできる。
病院から老人ホームに戻る
退院した義母は、自分のアパートがある老人ホームに戻ることになった。しかし、自分のアパートに戻ったとしても、もう自分一人で自立した生活ができるわけではなかった。
この老人ホームには、常時400名が生活しており、入居から人生の終末を迎えるまで病状に合わせ暮らせるよう設備と医療関係者が揃っている。
このホームでは、治療のため入院した後、病院から戻っても自分のアパートで生活できない人は、一旦「Metcalf」と言う24時間体制で世話をしてくれる個室に入ることができる。ここでは、食事から着替え、シャワー、薬の投与などを手伝う介護師がおり、看護師が定期的に病状を確認してくれる。
義母は一旦この「Metcalf」に入ることになった。この部屋は広くはないが、個室にトイレとシャワーがついていて、必要に応じて介助してくれる。この部屋の利用金額は最初の5日間は無料だが、その後は1日400ドル(6万円〜 1ドル=150円換算)が請求される。これは、自分が借りているアパートの月額代金を払う上に、支払うことになる。
この施設の良さは、個室の近くに必要な設備が揃っていて、ホーム内の遠くに行く必要がない。介護士を呼ぶためのブザーを押せば、1〜2分できてくれる。食事をする場所もすぐ側にあり、必要であればベッドまで運んでくれる。義母は、自分のアパートからクラシック音楽が聞けるラジオや好きな宝石をたくさん持ってきて、毎朝イヤリング、ネックレス、ブレスレットなどを選んでつけていた。大きな宝石が大好きで、服に合わせた色の宝石をつけると病人ではあっても生き生きとみえた。
普段あまり宝石をつけない私には、このようなおしゃれは真似できないことであった。ただ、洋服や靴、寝巻きなどは、私の方で着せやすいもの、体を締め付けないものを選んでもって行った。介護してくれる人たちもとても親切で、この施設に入ることに義母から不満の声を聞くことはなかった。
義母は、この「Metcalf」で25日間過ごした。
Assisted Living〜介護支援付き住居
この老人ホームには「Assisted Living」もある。自分のアパートで生活が難しくなった人、適度な介護が必要な人が住み、近くに介護士がいて呼べばすぐに対応してくれるところである。アパートから次の段階の居住場所だ。また「Metcalf」で数日を過ごした後、自分のアパートに帰らずこの「Assisted Living」に移動する人もいる。
しかし、今まで住んでいた自分のアパートを引き払い、完全に生活の拠点を変えなければならない。自分のアパートよりずいぶん狭くなる。
義母、自分のアパートに戻る
夫は、「もし母の残りの時間が限られているのであれば、「Metcalf」でも「Assisted Living」でもなく、母を母親のアパートに移したい。この馴染みのない病室で残りの日々を過ごすより、好きなものに囲まれた自分のアパートで最後の時間を過ごさせたいし、母もそれを望んでいるだろう」と言った。
1958年から1959年の間日本に滞在した時買った「狩野尚信」の屏風は、
義母が最も愛した芸術作品だ。ただ、400年前に描かれたこの屏風は、
外光や部屋の電光を受け、絵の部分が薄まり劣化している。
この屏風をどのようにするかは残されたものの大きな負担となった。
しかし、「Metcalf」と違い、自分のアパートでは介護士も看護師も手配されない。自分たち家族が24時間体制で介護できるわけでもない。つまり他の介護機関から人を雇って自分たちができないところを補助してもらう手配をしなければならなかった。
夫は、この地域で介護士を派遣してくれる会社を色々探した。夫が探して利用したのは、「24時間介護サービス」である。この会社の介護サービスは、1日1,000ドル(15万円)であった。
私は、「え〜〜っ、一日1,000ドル〜〜〜!!なんでそんなに高いの?」ぼったくりではないかと驚いた。
義母の施設内でのアパートの月額代金は、5,500ドル(約82万円)その上に日々の支払いが15万円・・・。もう私はアメリカの介護費用の高さに対する金銭感覚がなくなってきていた。
しかし、義母は自分のアパートに戻り、自分が長い間集めてきた好きなものに囲まれとても嬉しそうだった。いくらお金がかかったとしても正解だったと思う。そして何より、義母がこのような高額な費用を支払うことができる経済力があるからこそできることだった。
義母は、自分の余命がわずかであることを知らないかのように振る舞っていた。自分の場所に戻ったことで、自分で動ける間は写真や本を見たり、訪れてくれる友人たちと話したり、衰えいく心身ではあっても楽しそうにしていた。笑顔を見ることができたのは私たち介護者にとっても救いだった。この「自分のアパートに戻す」と言う判断は、間違いではなかったと思う。
また、面識のない介護士や看護師が1日中入れ替わり来て家にいることも懸念材料ではあったが、義母には問題ではなかった。時々、今まで自分でできていたトイレの介助が必要となり、介護士に対し苛立ちを見せる事はあった。
もう一人の特別な介護士
24時間体制の介護サービスでは、5人が1日3人交代で約8時間ずつ義母の部屋で待機し、夜中もついていてくれる。この段階で、義母は数日間少量ではあったが普通に食事をしていたので、介護士が作って食べさせていた。しかし、次第にほとんど何も食べられなくなっていった。
死が間近に迫った人の世話をするということは、決して安易な仕事ではない。
私は、この介護士たちとよく話をした。Kristineという介護士が言った。
「私はこの仕事が嫌いではないの。お給料もまあまあだし。8時間ずっと仕事をしなければならないわけでもない。でもね、私が担当の時にEleanorに亡くなってほしくないの。それだけは願っているわ」
私は、その気持ちがよくわかった。
夫は、この1年半ほど、週に2〜3回義母を定期的に世話してくれる人を頼んでいた。Starという、40歳代の小学生の子どもが2人いる美しい女性だった。介護士の免許を持ち、以前は介護会社に勤めていたが、会社のルールが好きではなく、またもっと良い賃金で契約できるよう個人事業者として働くことにした。
食事をとっているか、薬を飲んでいるかどうか確認してくれるが、1人暮らしの老人の話し相手であることも大切な仕事であった。1日2時間から4時間ほど部屋に来てくれて、普段行き届かないところのお世話をしてくれていた。とても明るく小さいところにもよく気がつく人で、義母も夫もとても気に入っていた。
義母の幻想や U T I(尿路感染症)のこともStarがまず気づいてくれた。特に、私たちが長期でポートランドを留守にする場合など、郵便をチェックし、支払いのために小切手を書いて送ることもした。食品の買い物から病院にまで連れて行ってもらい、義母の状況については、電話やメールで細かく報告してくれていた。
夫はStarをとても信頼していた。義母もStarがそばにいると安心していた。そこで24時間介護サービスが始まった時にも、彼女にも義母の世話を頼んだ。私は、彼女と一緒に義母を病院の点滴に連れて行ったこともあったが、とても優しく治療時の義母の苛立ちにもよく対応してくれた。
彼女は、義母がホスピスに入ると自分から申し出て、数日間は1日8〜12時間、夕方アパートに入って翌朝まで義母の側にいてくれた。
24時間介護サービスの人と一緒に・・・。
義母が亡くなってから彼女から介護の請求書が届いた。
私は目を疑った!!
時給:75ドル(11,250円〜 1ドル=150円換算)の請求書だ!
日給ではない! 時給である!
ヒェ〜〜!!私は、それまでStarのお給料がいくらか、時給が幾らかなど尋ねたこともなかったので、この金額には驚愕した。
弁護士のようにメールや電話も通信費として同じ時給金額で請求してあった。
4月は、1ヶ月間に4,124ドル(618,000円〜)
5月は、17日に義母が他界したので、2週間で5,875ドル(881,250円~) 。
2ヶ月まとめて請求が来た。約150万円!!
私は夫に「24時間介護の上に本当にStarが必要だったの?メールを書くのに時給75ドル?私だって1時間75ドルも請求できるのであれば、ヨボヨボのお爺さんの世話だって、なんだってできるわ」と暴言を吐いた!
夫は「母の世話をしてくれる人に、母のお金から払っているので大丈夫だ。StarはEleanorのような気難しい老人の世話をよくしてくれた。そしてEleanorにも最後に必要な人だったので、この請求通りに払う」と言った。
私はあまりの高額な請求に、Starの優しいイメージがグラグラと崩れ、阿修羅のように思えてきた・・・。
24時間介護サービスの一人 Deanna
介護会社から派遣された人は合計5人で、
時間帯を変えて来てくれた。
私は、彼女たちと色々な話をした。
Deannaは、自分が極度の肥満体(Obesity)であったが、
脂肪吸引と手術でここまで痩せたと話し、
術前と術後の写真を気軽に見せてくれた。
彼女が義母の最後を看取る人となった。
余命2週間を1ヶ月に延ばす
医師から「最後に会わせたい人がいたら、なるべく早めに知らせてください。延命の点滴治療は最高で4〜5回までです」と言われた。私たちは、すぐに夫の妹や弟、東京に住む孫たち、そして親戚の人たちに義母の状況を知らせた。
ホーム内の友人たち、妹Michelleやカリフォルニアから親戚がきた。最後に会いにきたのは、東京に住む私たちの子供たちで、5回目の点滴を終えた翌々日だった。ベッドに横たわった義母はとても喜び、孫たちに自分が幼い頃のクリスマスの話を面白く話して聞かせた。
自分のアパートで自分の好きな人たちと、時間を気にせず会うことができたのは、本当に良かったと思う。
ホスピスに入る
アメリカでは、老人が長期にわたって入院し病院で最後を迎える事は、ほとんどない。治療による生存の見込みがないと判断された患者は、病院に留まる事はできない。
この老人ホームでは、退院後ホーム内の自宅に戻らず、「Metcalf」で最後を迎える人も多い。しかし、義母の場合、自宅で「ホスピスケアー」に入ることにした。
義母の点滴治療は、近くの総合病院でできたので病院まで連れて行き、そこで数時間をかけて行われた。義母は痛みを極端に嫌う人で、予防注射でさえ嫌がった。しかし、この点滴を受けなければ、数日で意識もなくなり動けなくなる事は明白だった。夫と私は、義母に会いたい人が来るまでは続けようと決めた。
5日に1度点滴を受けに病院に行ったが、カルシウム値が下がった時の義母は驚くほど元気で、自分で歩き食欲もありよく話をした。しかし、その元気さはほんの2〜3日しか続かなかった。5回目の点滴後は、1〜2日少し動き回ったが、その後は確実に弱り、ベッドから起き上がれなくなった。
義母は、5回の点滴を受け最後の面会者である孫たちに会った後、翌日からホスピス医療に入った。そして、すべての治療が止められた。もちろんホスピス専門の医療チームが1日2回アパートを訪問し、義母の容体を伺い、痛みがあれば痛み止めの薬を飲ませ、後何日ほどの命かを私たちに告げ、心の準備を施した。
義母は、癌の痛みをほとんど訴えることもなく、1週間のホスピスの後、大好きな息子に手を取られ眠るように息を引き取った。2週間の余命宣告を受けたちょうど1ヶ月後のことだった。(つづく)
田中 寿美
熊本県出身。大学卒業後日本で働いていたが、1987年アメリカ人の日本文学者・日本伝統芸能研究者と結婚し、生活の拠点をオレゴン州ポートランドに移す。夫の大学での学生狂言や歌舞伎公演に伴い、舞台衣裳を担当するようになる。現在までに1500名以上の学生たちに着物を着せてきた。2004年から教えていた日本人学校補習校を2021年春退職。趣味は主催しているコーラスの仲間と歌うこと。1男1女の母。












